- 販売していません
- 文献概要
■撮ってきた写真を見ていたとき,立原道造の“廃墟の美”を思い出しました。古の建物は朽ちて美しさを増す,とあったような…。角川版の全集を引っ張り出してきて『方法論』をめくりました。建築は廃墟になることを想定していなければならない。以前それを読んで,現代建築と呼ばれるものが,後世にその姿を廃墟としてどれだけ美しくとどめることができるのだろうか,と考えたものです。
海に向かって「ばかやろ~」と叫ぶつもりはないのですが,三陸地方の津波の被害をこの目で見ておかなければと,東北自動車道を北へ。まず松島へ行き,そこから南三陸町の海岸縁を経て,気仙沼,陸前高田と走り抜けました。物見遊山と言われればそれまでですが,YouTubeの「陸前高田市長より全国の皆様へメッセージ」を見て,そう,自分の目で見なければ,と思い立ったのです。
松島の福浦島に渡り,その松島湾の景色を眺め,戻る際に,島に渡る橋のたもとにある通行チケットを販売するレストハウスの係員に,津波の話を聞いたところ,ここまで水が来たのですよ,と壁の赤いテープを指し示してくれました。ちょうど私の腰より少し下。松島湾の島々が津波の力を弱めたとのことでしたが,ここは津波の力を侮りました。
確かにその景色には驚きました。写真で見るのと実際で見るのとは大違い。その日は曇り。ともかく,海岸を走ろうと,松島を後に少し進むと,やけに広い浜に出ました。海岸寄りには松の並木,反対側には人家がまばらに点在し,やけに見晴らしがよい海岸線,それだけを見ればちょっとした海水浴場の風景。最初は気づかず,これまでの海水浴場のイメージをそこに当てはめていたのです。その景色が,連れ合いの「ここは街があったところよ」の声で一変しました。よく見ると家の土台がある。流された跡。津波の傷跡を残す人家もあります。さらに,南三陸町のリアス式海岸へ。入り江の奥に広がる浜,さらに奥のスペース,そこにも街があったはず。で,ちょっとした高台には以前のままの立派な家。でも,すぐ下は流されている。道路と平行した山側には,そこを通っていた気仙沼線の跡が,ぶつりぶつりと残されています。駅の跡。
陸前高田に入ると,その何もなさが広範囲に広がり,見渡すと,所々に,鉄筋コンクリートの建物が,どうすればこのような形になるのだろうというような,じつに無残な姿をとどめておりました。これは紛れもなく廃墟。しかし,自然のうちに歴史的時間のなかで還元されず,突然に取り残され,そこには美しさはありません。
瓦礫は整然と整理され,大型のトラックが砂埃をあげ走り回ります。ここに至るまでも,ヘルメットをかぶった男たちがせわしなく働いていました。1年数か月が過ぎたとはいえ,それにも驚きます。震災直後のがんばりは,昨年の5月号のブックレビュー『災害ユートピア』や今年の3月号の特集にあります。医師をはじめとするさまざまな人々の精力的活動には頭が下がります。でも,ボディーブローのように,じわじわ痛みが伝わってくるのはこれから,今からが本当の勝負なのだろうなと…。「東北は負けない」,「頑張れ!東北」。普段なら気にもとめないスローガン,今は心よりそう思います。
Copyright © 2012, "MEDICAL SCIENCES INTERNATIONAL, LTD." All rights reserved.