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■この夏は新約聖書を読むぞと,田川建三訳『新約聖書 訳と註 パウロ書簡その一』(作品社)を開きました。勧められたとおり,とても面白いのです。「本叢書全体への序文」がなによりも刺激的です。
『訳文は可能な限り最大限いわゆる直訳にとどめた。もちろん本当のところ,翻訳には直訳と意訳があって,それぞれだいぶ異なるものです,などというのは愚論である。そんな区別だては意味をなさない。意訳でない翻訳などありえないし,直訳でなければ訳したとは言えない。原文の「意味」をくんで,それを自分の言語に正確に表現するのでなければ,翻訳とは言えない。他方,原文の意味にできる限り緻密正確に,「直」に対応する訳文にしようという姿勢がなければ,原文から離れて好き勝手な作文をやらかすだけである。直訳では本当の訳にはなりません,直訳をやめて,意味をくんで,なるべくこちらの言語としてわかり易い文章にしましょう,などという能書きを言っている連中は,そもそも正確に直訳する能力がない連中である。他方,意訳はいけません,正確に一語一語原文をこちらの言語に移し植えてましょう,などと言っている連中は,文章の意味をとらえることを知らず,辞書に書いてある訳語を機械的に並べることしかしないから,それでは文書にならないのは当たり前の話しである。(略)古代の文章の場合,特に新約聖書等々の場合は,そもそも原文が何を言っているのか,正確にはとらえ難い場合が多い。三つ四つの異なった意味に解しうる場合などがけっこう多いのである。そのうちのどれかが正しい理解なのだろうけれども,どれが正しいのかは,今となってはもはやわからない。とすれば,翻訳としては,原文のその曖昧さをそのままに訳出しておかないといけない。翻訳で読む読者もまたその三つ四つの異なった理解を手に入れる権利があろうというものだ。それを,一部の(大部分と申し上げようか)既存の「聖書」の訳のように,それらの解釈のうちのどれか一つに決めて(しかもたいていの場合は,最も可能性の低い,ほとんど無理な解釈に決めて――そうするのが現代のちゃちな護教論にとって都合がいいからだが),その「解釈」を訳文に盛り込んだとしたら…(略)そもそもこれはやっぱりわからない,と言う文も時々出て来る。しょせん古代の文章である。わからなくて当たり前なのだ。そういう場合は,わからない,と言う答えが学問的には最も正しい答えなのであって,それをわかったように「訳」すとしたら,すでに誤訳である。いわゆる「わかり易い」訳ほど誤訳が多い理由の一つはそこにある。』
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