- 有料閲覧
- 文献概要
- 1ページ目
- 参考文献
はじめに—井村先生の声
澄んだ空気の室内から,咳払いとともに,ややカン高い声の主が「あのね,それじゃあ簡単なテストしましょうか」と切り出すのに続いて,「あれ先生,もうだって……」と何か言いたげに,しかし笑いながら口をはさむ患者の声を遮るように「あのね,私の言ったとおりに繰り返してくださりゃあいいのよ。私の言うとおりに,ね……」と柔らかいが歯切れよく諭しながら教示を繰り返す声が響く。間髪を置かず,ふで→「え,ふで?」「ホントに……,アレッ,もう本当に,先生」,かに→「え?」かに→「かに?」「言うとおりに言ってくださりゃあいいのよ」「ええ,ちょっと待ってくださいよ,僕は……かに,かに,かにって言うのが……かに」「難しいでしょ」「ああ先生難しいですよそりゃ……」と続く。この息の合ったコントのようなやりとりは,失語症患者に復唱課題を行う井村恒郎先生,その人の肉声を収めた貴重な会話録である(音声1)。この短い会話中にも語義失語と名づけられた失語症の特徴が見事に集約されている。
この音源は,井村先生の教室を継がれた野上芳美教授(日本大学精神医学教室)が,1985年の第9回日本神経心理学会総会において田邉敬貴先生(愛媛大学教授:当時大阪大学)が初めて語義失語例1)の症例報告をされた際,「いま出されたのが,まさしく井村先生が言っていた語義失語です」と駆け寄って来られ,その後田邉先生が語義失語のシンポジウムで講演2)された際に「田邉君,これを持っといてほしい」と託された録音テープと聞き及んでいる(Fig. 1)。筆者は,田邉先生,池田学先生(大阪大学)を通して,偉大な先駆者である井村先生の提唱された語義失語の臨床に携わることができた。幸い井村先生の初期の神経心理学的な研究は,四巻の著作集により全貌をうかがい知ることが可能である。これもひとえに野上先生をはじめ,井村先生の門下の方々,それと現代の神経心理学に語義失語の重要性を広く再認識させた田邉先生のご功績の賜と感謝している。
今回,語義失語の提唱者であり,日本精神医学のパイオニアでもある井村先生(Fig. 2)について執筆する機会を与えられた。この特異な言語障害のたどった道のりは,日本の神経心理学の歩みでもある。井村先生と語義失語のたどった軌跡の一部を紹介させていただく。語義失語については,既にすぐれた総説があり2-4),これらの助けを借りて,井村先生が伝えようとされた語義失語像について紐解き,今後の臨床研究への課題や展望も示したい。以下,偉大な先駆者の方々に登場していだく際に,敬称を省くことをお許しいただきたい。

Copyright © 2026, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.

