連載 「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・11
対話における身体性
斎藤 環
1
1筑波大学医学医療系社会精神保健学
pp.256-262
発行日 2022年5月15日
Published Date 2022/5/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1689201010
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対話する身体
前回は主としてバフチンの理論を参照しつつ、オープンダイアローグにおける対話の位置付けを補強してきました。バフチンは間違いなく、オープンダイアローグの成立において最も重要な貢献をした思想家です。ただそこには限界もあって、彼の「対話=存在」とみなすような、一種の対話存在論、対話万能論とでも言うべき論調のみでは、むしろ対話の「治療機序」を見誤ってしまうのではないか、という懸念がありました。
たとえばバフチンは、言語の発生においても「はじめに対話ありき」で考えようとします。しかし私は、ここに看過できない重大な問題があるように思います。とりわけ隠喩表現、象徴表現がいかにして共有されるかについては、バフチンの理論のみでは不十分なのではないか。さらに付け加えるなら、無理からぬことではありますが、バフチンの理論にはほとんど「身体」の次元がありません。もっとも身体の欠如はバフチンに限らず、ソシュールにしてもチョムスキーにしても、言語の活用と生成における身体性は、さして重視されていません。ただバフチンは、あれほど対話を重視していながら、対話の成立における身体の関わりにはひどく無関心に見えるのです。
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