連載 認知症の人とその家族から学んだこと—「……かもしれない」という、かかわりの歳月のなかで・第22回
社交、もしくは居場所で開かれるコミュニケーション
中島 紀惠子
1,2
1新潟県立看護大学
2北海道医療大学
pp.138-139
発行日 2019年2月15日
Published Date 2019/2/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1688201121
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日常の記憶が居場所をつくる
〈暮し〉を辞書(広辞苑第6版)で引いてみた。「くらすこと」「時日をすごすこと」とある。〈居場所〉を引くと「いるところ」「いどころ」である。私の考える〈居場所〉とは、人の〈生きる身〉の時日を刻む場である。その一瞬一瞬の記憶が、1人ひとりの特別な日常を形づくる。そのような〈身の置き所〉をいう。
もう7年も前になるが、2か月近くに及んだ入院生活は、私の人生において殊更特別な時間だった。そこではリハビリテーションだけが私の〈しごと〉で、毎夜、準夜勤の看護師が病室に訪れカーテンを閉めようとするその都度「開けておいてください」とお願いし、夜空を眺めることが日課になっていた。真夜中の星の輝きに誘われて現れる子どもの頃の故郷の風景と、これまで訪れた場所の光景、その時々の記憶が連なり、「あの時のあれはどういうことだったのか」「私は学生に看護というものをどう教えてきただろうか」と自分に語りかけ、答えることに没頭する。そして夜明けが近づこうという頃に寝入り、洗面所付近での賑わいや配膳車の音に目覚める。そんな自分だけの特別な時間だった。
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