連載 認知症の人とその家族から学んだこと—「……かもしれない」という、かかわりの歳月のなかで・第11回
ケアの技術を語ること、行なうことの難しさ
中島 紀惠子
1,2
1新潟県立看護大学
2北海道医療大学
pp.206-207
発行日 2018年3月15日
Published Date 2018/3/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1688200890
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挨拶は難しい
30年以上も前、介護施設の大部分は“徘回する人お断り”だった。しかし、そんな彼らを受け入れ、拘束をしないケアをめざして果敢に取り組んでいる施設がいくつもあった。当時私は、電話相談や介護家族の集い、訪問から、認知症の人の状態に関与しているかもしれないと思えるいくつもの問いを、認知症の人ときちんと触れ合って、わかりたい、そして、そこに必要とされる(または、あるべきはずの)ケアの心・知・技を言語化したいという思いにかられていた。
こうして観察とも手伝いともつかない勉強を許してくれた2、3の介護施設に出かけるようになった。滞在時間は、夕食時から居住者の多くが眠りにつき、ワーカーがひと息ついて多少の話し合いができる4〜6時間ほどであり、頻度も週1回のときもあれば2か月ぶりといったゆるい学びである。今はもっとゆるい視察に近い学びになっているが、いつ行っても難しいのは、彼らに挨拶をするタイミングと、その時々の言葉の選択や距離の取り方である。「こんにちは」「お仲間に入れてください」などの挨拶も、認知症の人には見知らぬ侵入者の迷惑な物言いであろう。それを承知で、“あなたがこの病とどのように付き合っているのか”を知りたいと願うわけで、受ける側としては、応答するにせよ、無視するにせよ、何らかの関係性を強いる行為である。
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