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はじめに
筆者は長年,質的研究に取り組んできた研究者である。近年,看護系の研究倫理にまつわることが様々なフェーズにおいて,厳重化されている流れを感じる。例えば,研究者の所属機関の倫理審査だけではなく,研究参加者の所属においても倫理審査を受けることが必要となるケースが増えている。もちろん,参加者が患者である場合はその意義は高いだろう。だが,参加者が看護師であり,主体的に研究に参加する場合であってもその義務が生じており,所属組織によっては外部の研究への参加を一律禁止している場合もある。看護師は専門職でありながら,自らの看護実践を語る主体として認められていないのだろうか。参加者が患者であれ看護師であれ,大きな組織に所属している状況においては,研究参加者として想定することが困難になっている。この傾向が定着すると,アクセスしやすい人々だけが研究参加者となるだろう。声をあげづらい状況に置かれている人々の経験は研究成果として出しづらくなり,学術分野においてその存在を見えなくしてしまう危険性を孕んでいる。
また,学術誌の査読においても,倫理審査の視点が過度に厳しくなっていることを感じる。筆者は自身の研究において,患者の手書きの日記を生データとして扱う機会があった(坂井,2024)。研究実施前にも倫理審査の承認を受け,参加者である方にも開始前に説明し同意をもらい,論文投稿前にも再度手書きの日記をデータとして扱う意図やどのような形で論文になるのかも説明し,再度書面で同意を得た。「何かの役に立つならばぜひ使ってほしい」という言葉も添えられていた。だが,看護系の学術誌に投稿したところ,手書きのデータを使うことに問題があるという指摘を受け,2誌からのリジェクトを経験した。手書きのデータを用いることの目的や意図を,査読者にも伝わるように論述しきれていなかったこともあるだろう。だが,できうる限りの倫理的配慮を行った上での投稿であったため,手書きデータの何がどのように問題であるのか詳細な指摘がなかったことに,戸惑いと途方に暮れる思いを抱いた。研究倫理に関する文献や資料を調べても,どこにも手書きのデータを扱うことを禁じたものはなく,他分野では手書きの日記がデータとされていることもある。
厳重化の流れについての事例は枚挙にいとまがないが,筆者にとっては近年抱き続けていた危機感に上述の経験も重なり,いったん立ち止まり考える必要性を強く感じるに至った。研究倫理があるからこそ参加者も研究者も安全に研究ができている。他方で,盲目的に厳重化していくことは,質的研究でいえば世に出るはずの患者の経験や思い,そしてそこから生まれる可能性があるケアの芽を摘んでしまうことになるのではないか。
そこで,本稿では筆者の手書きデータを扱った経験をもとに,新たな質的データと研究倫理について次の3点「質的研究の魅力」「データの多様性とその価値」「質的研究を育てる倫理審査の在り方」から述べ,最後に,規定や制度を理解しそれらに則りながらも,その都度出会うデータを活かす研究成果・研究倫理を考えていきたい。
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