連載 ちょっとオランダまで 周産期ケアと助産活動の実際・3
自己と他者の感覚と経験は共有化できるのか?―自己中心性の所在を踏まえて
滝沢 美津子
1
1山梨県立看護大学
pp.873-878
発行日 2003年10月1日
Published Date 2003/10/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1665100615
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人と人の間に生きる“わたくし”
“わたくし”が“わたくし”として自己を自覚できる時,あるいは自己を振りかえるきっかけを自覚した時,そこには必ず“わたくし”以外の「他者」や「モノ」の存在があります。私たちは,自分にとって馴染みのない出来事に遭遇した場合により強く“わたくし”を意識するのではないでしょうか。さらに人や物といった可視的な,実体のあるものだけに限らず,私たちは,眼には見えませんが,“わたくし”と「他者」や「モノ」との間に生じる,“何か”(例えば気圧,雰囲気,熱気といったある種のエネルギーのようなもの)を体感しているのではないかと思うのです。もちろん,その質にも感じ方にも差はあるでしょうし,厳密に言えば人と人の間に生じる“何か”と,人と物の間に生じる“何か”とは,違う性質のものであるともいえるのですが……。
オランダで,私は,日常生活の拠点としていたアムステルダム中央駅に程近いNieuwendijkのアパートから一歩外に足を踏み出した瞬間から,“わたくし”を意識する自分に気づかされました。この感覚と経験はオランダ滞在中,ずっと続いていましたが,特に研修に入った初期の頃には,より強く響いていたと思います。これはオランダでの私の個人的な経験の範疇を出ないものですが,しかし「どこにでも」「どんな時でも」「だれにでも」,“わたくし”を感じる瞬間の“響き”があるのではないかと思うのです。ただ,それを「なぜ」「どのように感じるのか」と説明するのは難しいことです。ましてや,他の人が「どのように感じているのか」を自分なりに説明することは至難の業ともいえます。
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