教育技法研究 目で見る看護史—魅力ある看護史の授業をめざして・7
岡山孤児院の母となった石井辰子[その2]
高橋 政子
1
1看護史研究会
pp.46-49
発行日 1984年1月25日
Published Date 1984/1/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1663907926
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明治39年の大収容と院内の看護体制
その後,岡山孤児院は日露戦争後の東北地方の大凶作,大飢饉に対して,凶作地孤貧児の救済に手を伸ばし,明治39年3月から6月にかけ,6回に分けて824名の子供たちを収容した.そして院児1200名,職員100名(半数が主婦)の盛況を呈する時を迎えるのであるが,それだけに大世帯の運営・管理には院長をはじめ心血をしぼった.
特に,この大収容後,麻疹の流行があったので診療活動に力を注ぎ,管之芳県病院長の全面的な援助を受けて,院内の3館(京都館,中央館,関門館)を病室にあてて拡充し,明治39年8月から毎日の午後,県病院から小児科医3人,眼科医2人,さらに1週1度の医長の来診をみるようになった.
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