教育の時代
教育における挫折
境澤 和男
1
1山形大学教育学部
pp.1
発行日 1969年6月1日
Published Date 1969/6/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1663906181
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大学の教師であり,そこで教育の研究に従事している私にとって,教育について語ることが,こんにちほど気重に感じられたことはない。しばしば論じられているように,いわゆる大学紛争が提起した問題は,大学の管理・運営と教育制度の改革であろう。大学を構成する私どもにとって,それは重大な反省と努力を迫る問題である。しかしそれ以上に,この紛争が教育そのものに対して,その本質観の再検討を迫るような数々の問題をなげかけているということが,私の教育についての思考に混乱を引き起こしているのである。この紛争を,教育それ自体の問題としてどのように受けとめるべきか。この問いに答えることは,とくに私ども教育研究者にとって,決して避けることのできない課題であるように思われる。
すでに二度来日し,よく知られているドイツの教育学者ボルノー教授は,教育が本質的に「冒険」としての性格をもち,その意味で「挫折」の可能性をはらんでいるという。なぜならば,教育の成否は被教育者の自由な意志にもとづく応答にかかっているからである。被教育者の自由を承認するということは,悪への自由,過誤への自由をも認めることでなければならない。したがって教育者の教育意図は被教育者の積極的な拒否に出会うことを,はじめから予想しなければならない。
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