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はじめに─知性と身体の溝
知的領野のなかで身体を扱うことには大きな困難が伴う。私のようにスポーツ社会学や身体の社会学を専門にする立場は,二重の排除を日々味わうことになる。一方で,社会学分野内部では,「身体」を扱うという理由によって蔑まれる傾向がある。身体は知的領野をめぐる階層秩序の低層を占め,軽んじられる。たとえば,健康と運動に関する研究分野で,医学と体育学はどちらも大きな貢献をしているが,医学にかかわる研究者と身体運動にかかわる体育研究者の知的階層の位置取りには大きな溝が見受けられるだろう。
他方でスポーツの現場や体育教育のように直接的に身体の活動に価値が置かれる場所からは,「身体」を語ることは内実を批判する裏切者として嫌われる傾向がある。
しかし,この二重に排除された場所に向き合うことそれ自体が,身体を学問するということなのではないだろうか。身体は,ある特定の「現場」で欲望されるものの,知的領野からは蔑まれる。「現場」と知的領野の関係は,身体的次元と知性の次元とに分断され,階層化されて成立する。「身体の知」に価値を見出そうとする学問は,この二重構造を維持する源泉を批判していくことから始まるのではないかと考える。おそらく,身体に着眼する看護教育や看護に関わる学問分野にも同様の立脚点を見出すことができるはずである。知性よりも身体性を求める領野に共通して経験される侮蔑的な位置というものがあるように思われる。
ところがここ数年,知性と身体をめぐる溝や階層秩序に揺らぎを与えるような事象が起きはじめている。もちろん,身体が知性の主要な場所に君臨するといった弁証法的な入れ替えを望むことも本末転倒であるが,グローバル化による知の産出形態の変容に伴って,思わぬかたちで身体が主要な場所に召喚されている。そこでは,近代の身体を考えてきた枠組み自体の変更が迫られている。本稿は,現代社会に要請される新しい身体をとらえるためのモデルの一端を提起してみたい。
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