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最近よく空を仰ぐようになった。佐藤さん(仮名)ならこの空をどう描くのだろう。ふと,そんなことを考えるようになった。同じ景色なのに,その時の気持ちで景色が違って見える。忘れていたこの感情を甦らせてくれたのは,実習で担当させて頂いた佐藤さんの影響だ。
佐藤さんは,私が受け持つ前日に,突然腰部の激痛により私の実習に行っている病院を受診し入院した。病名は脊椎圧迫骨折であると診断され,保存療法で治療を行っていくという説明を医師から受けていた。急遽入院が決まったうえに,学生を受け入れるということで,佐藤さんの精神状態は不安定ではないかと,とても心配だった。緊張しながらあいさつをすると,私の心配をよそに,視界に入ってきた佐藤さんは痛みのある腰をかばいながら,「よっ」と上体を起こし,「よろしくお願いしますね」とにこにこと優しい笑顔を向けてくれた。当初実習は,記録や陰部洗浄,清拭といった清潔ケアに追われて一日が終わっていた。コミュニケーションの時間も少なく,病室での会話は「痛むところは無いですか」「腰と膝が痛いのよ」「少しベッドの高さ変えてみましょうか」「ありがとうございます」といったありきたりの会話のみだった。佐藤さんは私と会話をすることが苦痛なのではないかと思い始めるようになった。それは,私が佐藤さんの病室へ行くと,わざわざベッドの高さを調節して私の目線に合わせたり,こちらに顔を向けようとしてくれる姿が辛そうに映り,申し訳なく思うようになったからだ。とても優しそうな笑顔の裏で,入院による環境の変化や,ベッド上安静で何もできないというストレスからか,佐藤さんは夜中に意味の分からないことを言いながら,ベッドサイドで立ち上がることが多くなった。私は何か佐藤さんの興味のあることを探し,日中はできるだけ覚醒を促していく必要があると考えていた。病棟実習に少し慣れ始めた3日目,教員が,「野崎さん。さっき佐藤さんと話をしていたんだけど,絵を描くのが好きなんだってねえ」と私に声を掛けてくれた。教員よりも私の方がコミュニケーションをとっていると思っていたのに,なぜ大事な言葉をキャッチできなかったのか。ショックだった。そして,私が努力することでもっと佐藤さんが心を開いてくれると分かり,私の足は佐藤さんの病室へ向かっていた。「私は,絵は下手だけどね,あの絵が描きたいのよ」意外にもあっさり佐藤さんはベッドの前にかけられているカレンダーを指差した。次の日から,私は色鉛筆を持ち込んで風景画を一緒に描くようになった。佐藤さんの笑顔が見られ,他愛ない会話をするようになった。私は絵を描くことでこんなにもコミュニケーションが深まるとは思っていなかった。
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