特集 不死烏としてはばたく保健婦
財団法人ひかり協会ができるまでの歩み
尼崎からの報告
大岸 弘子
1
,
遠山 きよみ
2
1尼崎市北保健所園田支所
2尼崎市東保健所
pp.596-597
発行日 1974年9月10日
Published Date 1974/9/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1662205522
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尼崎市は労働者の町,公害の町
"14年目の訪問"が発表された頃と,尼崎で"公害なくせ"と住民運動の組織が作られた頃は時を同じくしている。"はばたけ"の3年後輩の私達が就職したのもその頃で,尼崎のいろいろな公害に苦しむ住民は,ひとつになって運動していこうというその時に,14年目の訪問を行なった保健婦を通して,住民運動に参加していったのである。ちょうど1970年であった。
"はばたけ"が訪問を行なつている時に感じたという圧迫感,それは当時の尼崎にも森永タブーとしてあった。職場で森永ミルク中毒のひどさを話していて,「そんな話やめときなさい」と忠告された保健婦が,「ほんとうのことを言つて何で悪いのやろ」と,以来ことあるごとに森永の話をするようになり,同僚の中で支持されていったこともあった。
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