声
青春を賭けた8年間の保健婦生活
山下 恵子
1
1気仙沼市医師会准看学院
pp.6-7
発行日 1972年6月10日
Published Date 1972/6/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1662205092
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私は昭和39年3月に宮城県公衆衛生看護学校を卒業して,県の東北端に位置する人口1万人というごく小規模な漁業町に保健婦として就職した。国立東京第二病院付属高等看護学校に学んでいたころの看護の実際は,きびしい制約のわりには社会的地位が低く,そのレベルを高くしようと,実質的な努力をしている看護婦さんをみることは少なかったと思う。姑息的で自分の能力を活用できないという看護婦のイメージが,さらに公衆衛生看護学校入学を決意させた。それは以前からの教員への志望とあいまって,養護教諭になるための進学であったので,保健婦としてやっていくなど入学当時の自分には,全くもちあわせのない考えであった。
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