医療保障講座第9回
わが国の社会保障のあゆみ—皆保険プランの推移と新国保法
吉田 秀夫
1
1法政大学
pp.69-72
発行日 1964年7月10日
Published Date 1964/7/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1662203169
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いっせい皆保の方向を打ちだす
赤字を理由に健康保険の改正が3年ごしもみつづけているあいだに,皆保険政策の芽がではじめていた.1954年(昭29)の深刻な経済不況のあおりをうけて,政府の管掌するすべての社会保険が財政危機にみまわれ,国保もまた例外ではないという時期をへて56年,57年といわゆる神武以来の景気という異常を好景気を一時的にまねいた.皆保険政策指向の経済的背景はまさにこの好況にあった.なぜ神武景気といわれるようになったか.それは膨大な設備投資による産業の近代化が急速にすすめられたからである.アメリカを中心に外国からどしどし近代的な高度な機械が導入され,いわゆる第2の産業革命,技術革新といわれる時代に移行した.オートメーションなどはその代表であった。株式は空前のブームを生んだ.
すでに1955年の11月21日第二次鳩山内閣総辞職の日,厚生省は「社会保障5カ年計画」なる試案を公表した.これは「昭和35年までに,健康保険国保の適用を拡大し,全国民を対象にする」とした.翌56年5月に厚相の私設諮問機関として,医療保障委員会をもうけた.長沼,橋本,葛西,川上,中鉢の五氏であり,5人委員会ともいわれる.さきの7人委員会といい,のちの国民年金5人委員会といい,このころの厚生省の流行のムードであった.
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