PROFILE
—伊藤久江—産業保健婦の教育に情熱を注ぐ—「最近やっとですね,人間中心の健康管理がされるようになったのは」
吉
pp.465
発行日 1985年4月1日
Published Date 1985/4/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661921063
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敗戦直後,長崎の役所や保健所で働いていたが,結婚を機に福岡に移った.ちょうどそのころ(昭和30年代)は福岡県は産業保健の分野ではトップの位置にあった.筑豊の石炭は当時日本の産業エネルギーの大部分を占めていたし,豊富な石炭を背景として,八幡製鉄所はフル操業を続けていた.
その八幡製鉄所には100名もの保健婦がいたし,炭鉱労働者の長屋住宅のはじに保健婦は住んでいて,従業員だけでなく,家族の健康管理まで気を配っていた、‘家族の人も安心して保健婦に任せていましたね’
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