特集 体験としての看護—語り合うなかでの確かめ
体験としての看護—‘看護’を語り合うことの意味を求めて
外口 玉子
1
1東京都精神医学総合研究所医療看護研究室
pp.447-452
発行日 1977年5月1日
Published Date 1977/5/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661918141
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I.はじめに
これは長い間,私の中であたためつづけてきているテーマである.こうして看護について書こうとしている時も,看護仲間と話し合っている時も,それはいつも私を執拗(しつよう)にとらえて放さない.それというのは,おそらく次のような問いの中に含まれるもののようである.すなわち,“看護婦が患者とのかかわりの中で,体験的に気づいたことを意味づけしていくことによって,看護婦の確かな成長がもたらされるのではないか”“もし,そうであるとしたならば,いったいこの気づきとは何なのか”“それは看護婦のその人らしさといわれるものとどう関連しているのか”“また意味づけしていくとはどういうことなのか”“ではその1人の看護婦の気づきというものを他の看護婦は学ぶことができるのか”“その人らしさとは他の人に語りつげられるものなのか”“もし学ぶことができる,あるいは語りつげられることができるとしたら,それはどのような方法によって可能なのか”“そもそも1人の看護婦が自分にとっての看護体験を語るということは何をどう表現することなのか”
このことは一見,堂々めぐりの,どれひとつをとってみてもごく当たり前のことのように思えるが,いざ具体的に自分で答えようとしてみると,これがまた大変な問いであることを思い知らされるのである.
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