看護の視点 ナースの「戦争と平和」
日本看護史における戦時看護の位置づけ
福地 重孝
1
1和洋女子大
pp.33-37
発行日 1965年8月1日
Published Date 1965/8/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661917413
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軍国の母の教育
明治6年文部省は学制を頒布して,男子と同じく女子の教育の必要を強調した。女子は将来の母であり,子供を育てる教育者であるから,この母となる女子の教育は非常に重要であるというのである。当時社会の啓蒙思想家によって,男女平等論,一夫一婦論がとかれたが,儒教倫理による男女の差別観,強い男尊女卑思想は一朝一夕に尽きるものではなかった。社会の大勢は良妻賢母式一封建的な七去三従式の一を継承し,婦人の社会進出よりは,家庭本位の保守的な女性,例えば下田歌子の「婦女家庭論」に見られる「婦人の美徳は,温順なる性質にあり,演説家,民権家のごときは婦人の望むところにあらず」といっていることによっても知られるように,いわば賢母の育成は,ひいては富国強兵のもとになる丈夫な男子を生み,それを育てて国家に報じさせるという一点に帰したのであった。
そうした線をより明瞭に教育にうち出したのは文部大臣森有礼の女子教育であった。彼は女子教育の目標を兵士の母,兵士の妻たるべき「軍国の女性」の育成においた。そして,その効果を挙げるために教材として,「母が子を養育する図」「子が20年に達して入営する図」「困難に遭つて奮戦する図」「戦死の報が母のもとに至るの図」等の掛図7,8枚を教場にかかげさせた。
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