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大言小言—人間の理解に未来を開け
森川 時久
pp.113-114
発行日 1968年7月1日
Published Date 1968/7/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661914065
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この冬,僕たちは仕事で何人かの看護婦さんと知りあい,現場を見学し,話しを聞いて歩いた。外科で毎日5件以上の手術に取り組んでいる人,精神科で夜勤に首吊りの心配をするのが一番いやだと話す人,産婦人科で生まれたばかりの赤ん坊と格闘している人,どの職場も普通の状態ではない病人や,その周囲の人達を相手に,的確に職務を果たしてゆかなくてはならないのだから大変である。その上,現代は何よりも合理化,專門化が優先しているから,看護の方もこれと併行して,専門化し,細分化していることは否定できない。だから,ベッドを用意し,シーツを取りかえ,尿瓶を洗い,塵芥を片附ける人遠はなお大変なのである。専門化が人体の病める部分を正確に判断し処置してゆくために,より科学的,合理的であることを否定する訳ではないが,では一個の人間全体とのふれあいや,人間としての看護婦の仕事のあり方と,この細分化とは,どこでどのように統合し,受けとめられて行くのであろうか。毎日手術手術に追われている人達は,その患者が再び生命をとり戻した喜びを,どこで受けとめ,それを明日の仕事の喜びに転換してゆくのか。短期間しかも集団で赤ん坊の断片ばかりを取り扱っている人達は,一人ひとりの赤ん坊の発育とその親達の不安や希望を,どこで受けとめているのだろうか。あの子は,私が取りあげ,育て,見守ってあげたのだという喜びや誇りは,どこで感じとるのであろうか。
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