看護の潮 明日の看護婦へ
わたくしの修業時代
きびしさから得た“自ら学ぶ”
須河内 とも江
1
1九州大学医学部付属病院
pp.36-37
発行日 1968年3月1日
Published Date 1968/3/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661913907
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きびしかった寄宿舎生活
私の養成所の歴史は明治36年九州帝国大学の前身,福岡県立病院時代より始まります。1年に春と秋の2回募集していたそうですが,私は,今からちょうど40年前の秋,白衣に憧れて養成所に入学しました。私どもが入学した頃は,現在のように学校が別になっておらず,看護婦寄宿舎がいわゆる養成所で,生徒も看護婦といっしょに入舎していました。寄宿舎には3人の看護婦長がおられそのうちの一人は「取締さん」といって,すべての監督をしていました。その頃の寄宿舎規則も今から考えますと,非常にきびしく,午前5時板木とともに起床(この板木は今もあり,学生寮で使っています),直ちに病棟に出勤ということになっていました。また外出も日曜日以外は全く出られず,出る時は必ず外出簿を提出して監督さんから許可を受け門衛に出し,帰舎時に検印を受けることになっていました。外出時間も午後5時までで,遅刻するとやかましいので急いで帰って来たものです。服装も木綿の着物に木綿の袴で,もし銘仙など着ていると着替えさせられました。また化粧もご法度で,化粧気があれば顔を洗いなおさせられました。私は幸い田舎者でクリームもろくにつけたことはありませんし,ヘチマコロンなどをつけていましたので,叱られたことはありませんでした。
さらに手紙などもいちいち検閲され,疑わしいものは全部開封されていましたので,恋文などはめったに出せませんでした。
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