日本看護史の旅・11
大阪城(大阪)
石原 明
1
1横浜市大
pp.1
発行日 1966年11月1日
Published Date 1966/11/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661912920
- 有料閲覧
- 文献概要
慶長19年(1614)11月,徳川家康は豊臣一族の勢力を弱めるため,世に有名な“大阪冬の陣”をおこした。翌月和約が成立したが,約に背いて徳川勢は外堀を埋めてしまった。その他違約が重なったので,大いに怒った豊臣方は背水の陣をしいて翌年3月に事をおこし,5月には決戦体制になっていわゆる“大阪夏の陣”がおこった。結果は木村重成わずか21歳で,また軍師の其田幸村は46歳の男盛りで戦死し,片桐且元は病床に伏して63歳の生涯を閉じるというように,さしも金城鉄壁を誇った名城も陥落して豊臣氏はここに滅びた。350年後の今もなお,大阪城は石垣と井戸に昔の面影をとどめて“つわものどもの夢”を伝えている。両戦争のありさまは彦根の井伊家に伝わる“彦根屏風”(重文),東北の最上家に伝わった“最上屏風”(原物は焼失)によって詳しく知ることができる。
武士道がまだすたれていないころなので,戦友の仲間同志は5人1組となって互いに助け合い,受傷者を城中の安全な場所に運びこむと,そのあとは御殿女中を中心とした篤志看護婦が治療をした。いま大阪城の天守閣前にある“金明水”(その昔黄金の大判を投じて金イオンによる消毒をした井戸)は,両陣の時に負傷者の局所を洗い,気付薬をせんじた水に使われたことであろう。
Copyright © 1966, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.