特集 原子力を理解するために
平和の原子力との10年間—上—1946年9月(昭和21年)から1956年9月(昭和31年)まで
エリザベス・アンダーソン
,
藤田 順一
pp.41-46
発行日 1957年11月15日
Published Date 1957/11/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661910478
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多くの人にとつては“オーク・リツジ”の名前は“原子爆弾”の意味でしよう。しかしそこに佳んでいるものにとつては違つています。というのは私達はこの土地には沢山の防禦施設があることを知つているからです。最初の2カ年間は—昭和18年の夏から,昭和20年の夏まで。—何が行われているのか知つている人はごく僅かでした。そして世界で始めての原子爆弾が投下されるやいなや,多くの科学者は平和時の研究を考え始めました。1955年(昭和30年)の8月に,ジユネーブの原子力の平和的利用会議が,オーク・リツジの住人達が過去10年間,いかなる生活をして来たかを世界中に知らせました。
私の主人と私は最初の原子爆弾以前の1945年(昭和30年)にオーク・リツジの友達を訪ねました。そして1946年(昭和21年)にそこに住むためにやつて参りました。主人は平和時の研究が,ちようど始まつたばかりの時に,その最初の大きな研究陣に職がありました。即ち主人の仕事はオーク・リツジ国立研究所(ORNL)の生物部門でした。当時は国立研究所というよりは単なる部門でした(今は部門ではありません)。多分10人か15人の人が働いているだけでした。今では生物部門は約200人の人がおり,全国立製弾工場では3500人が動めています。
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