発行日 1950年4月15日
Published Date 1950/4/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661906634
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迷信の有害無害
迷信を『合理的にものごとを考え得ない精神の弱さ』と定義すると,それはおそろしく擴つてしまつて,私達の日常生活のすべてを蔽つてしまう。例えば20圓を投じてスピードくじを買う。極めて確率の低いくじに僥倖を頼む心,それはすでに迷信である。試驗の前夜に山をかける學生の心も頼むべからざる偶然を頼むが故に迷信である。開國以來不敗の國史に天佑神助を期待した指導者たちも迷信である。しかしそうした廣義の迷信はともかくとして,こゝでは疾病治療,健康増進に關係の深い狹義の迷信に限つて話をすゝめようと思う。
迷信には有害なものと無害なものとあろ。例えば,正月の屠蘇を例にしてみよう。これは唐の孫思邈という人の造つたくすりで,鬼氣を屠り人魂を蘇生する力を持つといわれた。五六種の漢藥を混じたもので,もちろん左様な効力はあろうはずもない。しかし正月に屠蘇をのむのは無意味ではあろうが害はない。強いていえば無害無益のものに費用をかけることはいかに醇風美俗といつても既にマイナスにはちがいない。よろしく消滅すべしという議論も出るかもしれない。しかしさして害もない年中行事であるから,やいやい騷ぐほどのことも無いと思う。われわれの仲間ではもうこの習慣は忘れられている。次の代には消滅するにちがいない。こうしたものを私は無害と考える。
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