母もわたしも助産婦さん
女が仕事をもつことの尊さを学ぶ
清水 美知子
pp.50-51
発行日 1968年7月1日
Published Date 1968/7/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1611203595
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月日の経つのは,早いものでございます.昭和18年4歳にて父の戦死を知り,20年の敗戦を知り,焼野原に祖母と母と,私と,女ばかりの3人が,電燈もないお粗末なバラックで,すいとんをすすり,米粒に涙を流して喜んだあの日々のことが,懐しく,美しい想い出として,浮んでまいります.
昭和22,3年頃でございましょうか,私のバラック家の近辺にも,ぼつぼつ家数が増してきた折から,祖母の竹を割ったようなさっぱりとした性格と,良き援護者である母と,戦前からの産婆の看板とが,人様に親しまれ,重宝がられて,分娩介助数も徐々に多くなってまいりました.当時はもちろん自宅分娩ばかりでございましたから,1日に十数軒もの沐浴に,祖母と母が自転車で走り廻り,その頃,小学生だった私は,学校から帰りましても,母の"お帰りなさい"の言葉も聞けず,たまに母が縫物でもしている姿を見ますと,それがとても嬉しくて,母の側から離れられなかったこともございましたし,夜中,お産がさし合って,祖母と,母とが出かけてしまいますと,私一人,バラックの隙間から見える月を仰ぎながら,ちょっとした物音にも,恐ろしさで眠れぬ一夜を明かした記憶もございます.
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