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笑うということ
桑原 謙治
1
1彦根市立病院
pp.49-52
発行日 1956年4月1日
Published Date 1956/4/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1611201040
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一週間程前,私の宿直の夜,泥酔の怪我人がかつぎ込まれた.連れて来たのは制服制帽で身をかため,腰にピストル,革手袋をはめた右手に大型懐中電燈を持つたイカメシイ警官であつた.怪我は顔面,右下肢一面にかすり傷程度のものが点在するだけで,大したものではなかつた.たつた一カ所顎部にある小切創だけは一針縫合する必要があつた.人手が足りなかつたので,私は警官に頭を支えていて欲しいと頼んだ.ものの数分間,私がこの小つぽけな外傷を一針縫つた時,件の警官氏がヘナヘナとくずれ落ちるように倒れてしまつた.私は何事が起つたのか見当もつかなかつた.看護婦さんが「脳貧血では?」と口走つた.早速かついで隣室へ運び入れ,畳の上へ寝かせつけたものだが,それからしばらくの間,こみ上げてくる笑いで涙が出る程だつた.何故か?
実は,私はマルセルパニヨルの『笑いについて』と云う新書を読んで,この文を書き出したのである.警官氏卒倒の実話は,パニヨルが主唱する笑いの定義を充分満足させている.彼によれば,「笑いは勝利の歌」である.つまり私達は何か自分より愚劣なものを急に発見したとき,優越感の表現として笑うのである.私はお前さんより,(又は彼より,或いは全世界より,或いは私自身より)すぐれているから笑うのである.
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