日記の一頁
目をみはる進歩
拓植 あい
pp.53
発行日 1952年1月1日
Published Date 1952/1/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1611200022
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「思い出」と申しましても,産婆を職として,かれこれ50年も經ちますので,何を一つ取りあげて見ても,お話しすれば3時間も4時間もかかるありさまですね。何からお話していいか一こうにわかりませんよ。
私は初め看護婦だつたのですが,明治23年でしたか--今の東京大學に濱田玄得さんがドイツから歸つて來られて産婆學校を建てましたので,その第1期生として入學しました。第1期生は40人でしたが,さあ今はもうほんの5,6人しか残つていません。その當時は學校を卒業しても,取上げ婆さんというのが勢力をもつていまして,お客さんは皆んなそつちに頼み,我々なんかに頼みに來る人は滅多にいませんでした。一般の人々には經濟的で安んちよくでそつちの方がよつぽどよかつたのですね。衞生の點では無茶だし,我々のように七面倒くさいことは言わなかつたし……。それでもよかつたのですよ。考えれば随分無茶なものでしたね。そんな時代から見ると今の助産婦さんは本當に幸せです。名前も「産婆」から「助産婦」に變り,既に國家的な事業になつて皆んなが一生懸命やって來れるのですからね。妊娠5ヵ月になれば1人残らず妊婦手帳を渡され,間違いのないようになりました。
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