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ミズーリ州のBrookfieldという人口わずか5,000の小さな町に家具商の息了として生まれたハワード少年は,つつましい生活の中で,町にできたばかりの初めての病院―とはいっても病室が6つと台所を改造した手術場しかなく,レントゲンさえなかったが―で,手術が終わってから手術場の掃除をし,用具を洗うのを手伝うという条件で手術の見学を許される.1901年生まれ,当年11歳の彼は,あくなき好奇心で医学に惹きつけられていき,さまざまの驚くべき経験をする.高校ではフットボールの選手,そしてミズーリ大学に進学し,その1学年は楽しい学生生活を送る.しかし1921年の第一次大戦後の最初の大不況,彼の父親の事業は失敗し,一家は無一文同然,ハワード青年は大学をやめて働くと申し出るが,清教徒の母はそれを許さず,2年生からは昼は細菌学教室の試験管を洗い,夜は郡病院の看護助手という苦学力行の生活,その中で彼はこの世でもっともすばらしい娘グラディスと恋におちる.4年生の終わりに正式の婚約,しかし彼はペンシルバニア大学の医学部に進み,ソーシャルワークを学んだ彼女はニューヨークに職を得て2人はまた別れ別れ,彼等がやっと結婚できたのは,彼が25歳の秋,セントルイスの病院でのインターンを終わって,開業医の代診としてどうにか収入の途を確保できた時であった…….
と,こんな調子でラスクの自伝は進んでいく.もちろん,この本の前書きには,事故で四肢麻痺となった青年が絶望から立ち直っていく姿が描かれ,彼にそれを可能にさせたのがリハビリテーションであり,それがいかに今日の姿まで発展したのかを語るのこそがこの本のテーマであると謳いあげてあるし,第1章は真珠湾攻撃のニュースが全米をゆるがせた1941年12月7日,すでに40歳のラスク医師が,成功した内科開業医としての生活を捨てて軍医として志願するのを決意する日のことからはじまる.その日こそ,彼の人生の転機であり,またアメリカの転機であったのだというわけである.そして,少年時代の回想をはさみつつ,物語は空軍のジェファーソン基地(ミズーリ州)での最初のリハビリテーション・プログラムの成功,それが空軍の軍医総監に認められて,多くの空軍病院にリハビリテーションを発足させる責任を負わされて,無理解な旧式の軍人を説得して歩く苦労.有名な Army Air Force Convalescent Training Programの拡大,その中での今日にいたるまでの彼の同志であるEugene Taylorや,すでにニューヨークでリハビリテーションをはじめていたDr. Deaverなどとの出逢いに及び,さらに戦後のベルビュー病院の一角から出発して,ついにニューヨーク大学リハビリテーション医学研究所の建設に到るまでの苦難の道,その後の国際的な多数な活動などが語られていく.
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