- 有料閲覧
- 文献概要
「国破れて山河在り」というのは,盛唐の詩人杜甫(712~770)が46歳の時に詠んだ『春望』の最初の句であるが,安禄山の乱で俘虜の身となった杜甫は,荒廃した長安の都の春の光景を眺めながらこの詩を詠んだという.「国破れて山河在り 城春にして草木深し」と続く古今の絶唱については,「国は破れたのに山河自然はそのままだ 城には春が訪れて草木がこんもりと茂っている」(田中克己,小野忍,小山正孝編訳『中国古典文学大系・唐代詩集(上)』,平凡社),「国都は破壊しつくされて昔の姿をとどめているのは山河だけだ.城内にも春がめぐってきて,いまや草木がこんもりと生い茂っている」(松枝茂夫編『中国名詩選(中)』,岩波書店),「都はめちゃくちゃになってしまったが山や河はむかしのままであり,長安には春が訪れて草や木が深々と生い茂っている」(黒川洋一編『杜甫詩選』,岩波書店)などと訳されてきたように,一般には人間の営みのむなしさ・はかなさに対比して,悠久なる自然の不変性や回帰性を肯定的に捉え,そこに心の慰めや魂の拠り所を見いだすという解釈がなされているようである.
しかし,わが国の歴史上類をみない今回の震災と,それにもかかわらず今年もいつもの年と同じように咲き誇り散っていった千鳥ヶ淵の桜を見ていると,「国破れて山河在り」という句にはもっと違う意味を見いだすことができるのでないかと思うようになった.それは,人間の営みと自然の営みは所詮無関係なものであるという感慨で,われわれはとかく桜が咲くのを見ては希望に満ちた人生のスタートを思い,桜の花が散るのを見ては人生のはかなさや散り際の潔さを思いがちである.だが,それは人間の側の自然界への一方的な思い入れに過ぎないのであって,桜の花は人間世界で何が起ころうと,それとは没交渉に自分たちの原理で花開き散っているだけなのである.そこにいろいろな意味を込めるのは人間の自由だが,自然とは本来,そうした人間が勝手に付与した意味や思惑とは無関係に移りゆく非情なものである.今回の大震災とその後何事もなかったかのように咲いた桜の花を見て,自分は「国破れて山河在り」という句に,安易な意味づけや感情移入を許さない自然の厳しさのようなものを感じたのである.あるいは,杜甫の体験した災厄が内乱という人間の営みによってもたらされたものであったのに対して,今回の災厄は地震や津波という自然現象そのものによってもたらされたものであることもそうした感慨を促した理由の一つかもしれないが,考えてみれば地震や津波を天罰とみなすような解釈も所詮は人間の勝手な思い込みに過ぎないのであって,未だ罪を犯す暇すらなかった乳児や,地域住民を避難させるために最後まで職責を尽した人々の命までも等し並みに呑み込んでいった今回の震災そのものが,正に自然界は―この自然界の現象には病気や障害といった現象も含まれる―,人間社会とは異なる原理で動いていることを思い知らせる出来事ではなかったかと思えてくるのである.
Copyright © 2011, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.