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1 . はじめに
21世紀に入り,われわれ人類はヒト1人分の全ゲノム塩基配列を決定する“ヒトゲノム計画”を2003年に達成し,続いて個々人の差,すなわち多型を調べる“国際ハップマップ計画”へと進んだ.そしてそれからさほどの時間も経ずに,世界中から様々な人種1,000人規模の検体を収集し,それらの全ゲノム配列決定を行い,人種差も含めたより精細な多型,多様性を明らかにしようという,通称“1,000ゲノムプロジェクト”の流れへと進んでいる.
このように人類は,近年のバイオテクノロジーとITの急速な発展を背景に,自らの種の個体差を見極めようと,より精細にそして,より大規模なプロジェクトへと歩を進めつつある.ただしこの1,000ゲノムプロジェクトについては,アジアからは中国が手を挙げ新規参加することになり,それまで中心的役割を担い大きく貢献してきた本邦は,驚くべきことに参加を見送った.ヒトの全ゲノム塩基配列を解読するヒトゲノム計画が終わった時点でゲノム研究は完了したという,一部の人々の誤った解釈により,日本は1,000ゲノムプロジェクトへの参画を見送ったのである.政府のこのポスト・ゲノム時代の重要な柱の一つとなるプロジェクトへの不参画という誤った判断は,それまで国際協同プロジェクトで非常に大きな役割を果たし,みずから科学技術創造立国を目指し,かつ標榜してきているわが国としては由々しき事態どころか当該分野で取り返しのつかない致命的な後れを取ることになった.一方で,今後,人類遺伝学,遺伝医学は日常診療を越え,国民生活の様々な分野に急速に浸透してくることが予測されている.まさにこれから収穫期に入ろうという,これまでの成果の「実用」化を目指す時代を迎えようというなかで,日本が明らかにしてきた膨大な知見,日本の開発したテクノロジーや機器,日本の押さえた特許,知財,こういったものが今後極めて少なくなり,欧米や中国に席巻されることになるのは不可避となりつつある.そのような情勢のなか,先端生命科学分野と一般市民生活との距離感は情報量・知識量としてはこれまで以上に乖離していく一方で,そのテクノロジーと現実の市民生活とはますます近くなり切り離すことができなくなっていく.
21世紀に入って以降の急速な技術革新により,人類は超大量のDNAシークエンス解析をごく短時間で行うことを可能にしてきており,たった1台でconventionalなDNA sequencer数百台分以上の処理能力を有する次世代sequencerが開発され,既に実用されている.さらには,喫緊の内にヒト1人分の全ゲノムDNA配列決定をわずか数分で行う解析装置も実用化されるという.また,コストについてもヒトゲノム計画の際に組まれた予算が米国だけで15年間分で約30億ドル組まれ,日本が投入した費用は約1,260億円といわれているが,この日米2か国だけでも4,000億円以上を費やしたシークエンス解析コストを,わずか10万円程度にまで下げると表明する企業も出てきている.1,000ドルゲノム時代の到来である.たった数年でヒトゲノム解読を,時間で1,700万分の1に短縮し,費用面で少なくとも400万分の1未満へのコストカットを実現するという次世代・次々世代sequencerの開発は,多因子遺伝や体質といったこれまで不可能であった領域の解明を可能にしつつある.
このようにバイオインフォマティクス技術の急速な進歩が人類遺伝学,遺伝医学のドラスティックな進歩・発展を下支えしているが,実用面,つまり既述した一般市民生活,人々の健康増進や医療などに役立てようとするには,単にこういったgenotype(遺伝子型)の解析面での発展を押し進めるだけでは不十分で,車の両輪の関係に当たるphenotype(表現型)との関連を丹念に明らかにするという比較検討が必要条件となる.多因子遺伝がかかわるphenotype,すなわち癌や生活習慣病などのcommon diseaseや精神疾患,膠原病などの疾病易罹患性,またアレルギー体質,肥満体質といった体質や素因,これらphenotypeとgenotypeの関係を明らかにするとなると,実際にはメガコホートとでも呼び得る大規模前向き調査とGenome-Wide Association Study(GWAS)を組み合わせた大規模研究が不可欠である.つまり膨大な人数の協力を得て,彼らのゲノム情報の解析とともに病歴・生活歴,環境曝露などの追跡調査を行っていく必要があるということである.多因子遺伝形質のgenotype-phenotype correlationを,高い科学的信頼性をもって明らかにしようとするには,それだけのことが求められるのである.
このように,ゲノムの個体差にまつわる情報を人類一人ひとりの健康増進や医療などの実用面で高い信頼度をもって役立てるまでに持っていくには,まだいくつもの高いハードルを越える必要がある.これは換言すれば多因子遺伝形質の範疇に入る個人の特性,すなわち上記の疾病易罹患性や体質といったものについては,現時点においては臨床実践の場で予測したり示唆するにはいまだ科学的根拠に乏しいと言わざるを得ないことにほかならない.
大学病院の遺伝診療部など臨床遺伝の現場でも,遺伝カウンセリングを実施する際にも,多因子遺伝性疾患のそれについては,いまだ茫漠とした説明しかできないのが現実である.多因子遺伝性疾患や体質に関する精度の高いオーダーメイド医療または予測医療の実現には,少なくとも臨床の現場では今しばらくの時間が必要といえる.
こういった人類遺伝医学を包含するアカデミア,または遺伝医療領域の現状を踏まえ,以下の本題へ入っていく.
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