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1.女性検査技師との始めての出会い
私が始めてお会いした女性検査技師は1944(昭和19)年に橋本昌子さん(写真1)で,今は病で伏して居られるが,現在の東京文化学園,当時は女子経済専門学校という名前で呼ばれていたところの御出身である.そこの顧問が聖ルカ国際病院院長の橋本寛敏先生であられた関係で,検査室の技師はほとんどそこの出身であった.私は学生時代に生化学教室に出入していた関係で臨床研修より検査に興味があり,臨床化学より血算とか一般検査,細菌,病理解剖を橋本さんから手ほどきしていただいた.山川英子さんという女性技師も居り,彼女は後に米国に渡り,大学に進み,そこの細菌学教授にまでになった.こんな関係から臨床病理懇談会の創立に際し,橋本院長が東京文化学園の森本理事長に懇請し日本最初の検査技師養成機関,「医学技術研究室」を1952(昭和27)年に開校させた.入学資格は専門学校卒業生で,修業年限1年,10名の女子が合格した.第1回生の1人に相賀静子さんがおられる.埼玉県立医療衛生短期大学教授にまでなられたが,その後どうしておられるのか,ここ数年前から平成16(2004)年度日本臨床検査医学会名簿にも一般会員のトップに名前が載っている.
私は開校時,既に日野原重明先生の推薦で米国Duke大学病院への留学が決っていたので半年検査総論を講義し,実習は国立東京第一病院で行われた.教室は校舎の正門横の体育場で関係図書も実習器具も何もなく,私の蔵書とアチコチの検査機械店を訪問し検査器具を寄付していただいた.そのとき使用した教科書が今でも手許にある「簡単な検査法」という医学書院から出版されていたNURSE’S LIBRARYのNo.44,1951(昭和26)年(写真2)であり,所沢綾子女史の担当.校長はラジオドクターの近藤宏二医学博士であった.1955(昭和30)年に高卒で進学できる女性だけの2年制の各種学校「東京文化医学技術学校」に変わった.それ以前には軍に衛生兵の養成校があったが男だけであり,それらの方が終戦後は国立・民間の病院に就職し,検査担当の主力となっていた.獣医や薬学出身の方も少なからず参入され,これらの人々が初代の技師長になっていたが男が主であった.男女ともに共学の技師養成校は1957(昭和32)年,北里研究所が開設した.国の衛生検査技師法が施行されたのは1958(昭和33)年である.文献によると1949(昭和24)年から国立東京療養所では作業病棟の結核回復者を検査室にて実習生として検査技術を習得させており,わが国の臨床化学開拓者,東大理学部出身の故北村元仕博士もその1人である.4年制の大学教育は1962(昭和37)年,北里研究所創立50周年記念事業として北里学園が誕生し,北里大学衛生学部を開校したのが第一号であり,大学院修士課程が1967(昭和42)年に,博士課程が1975(昭和50)年に認可されている.もちろん男女共学である.この学園は最近,医療衛生学部と改称された.衛生技術学科には微生物学,免疫学,病理学,遺伝子検査学,血液情報解析学,臨床細胞学,臨床生理学,臨床化学.産業衛生学専攻には公衆衛生学,環境衛生学,衛生学,精神衛生.リハビリテーション学科には理学療法学専攻,作業療法学専攻,言語聴覚療法学専攻,視覚機能療法学専攻.医療工学科には臨床工学専攻,診療放射線技術科学専攻など幅広い学科となっており,多くの国立・私立大学がこれを真似るのを創立している.
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