特集 子供の衛生と人間形成
綜説
母子衞生のあゆみ
若松 栄一
1
1厚生省母子衛生課
pp.120-123
発行日 1958年3月15日
Published Date 1958/3/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401201936
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おいたち
まだ日本の乳児死亡率が現在の4倍も高かつた頃,大正5年に政府は乳幼児及び青壮年の死亡改善のために保健衛生調査会を設置し,大正11年には我国の乳児死亡を減少させるための方策如何という諮問が出され,それに対して特別委員会を設けて調査審議した結果「差当り須要都市に小児健康相談所を設置すべし」との答申がなされた。現在788カ所の保健所を整備した偉容と思いくらべると今昔の感なきを得ない。それにしても母子衛生はどうして育つて来たろうか。
昭和12年に保健所法の制定により,保健所が保健衛生サービスのセンターとして発足したわけであるが,当時多くの保健所が簡易保険の健康相談所から転換したため結核の相談のみが主として行われ,母子の保健指導は仲々進展を見なかつた。当時満洲事変に始まつた戦争が拡大するにつれて,生めよ殖やせよの掛け声をバツクにして母子の保健指導が取りあげられた。即ち昭和15年に制定された国民体力法に基づいて人的資源の培養策としての青少年の体位の向上が打ち出され,その一環として乳幼児の検診,保健指導が実施されることになつた。16年には人口対策確立要綱が国策として定められ,乳幼児から更に妊産婦の保健指導をも行うことになり,17年には妊産婦手帳の制度が始められるに到つた。しかしながら末端行政機構も技術者のサービス網も整備せずにそういう施策が徹底するはずもなく,かつ又大平洋戦争の非勢と共にすべてが壊滅に帰してしまつた。
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