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はじめに
知覚が,われわれ人間の生活にとって非常に大きな役割を果していることは,知覚を形成する五感(視・聴・味・嗅・触)のひとつに障害がある人が,いかに不自由な生活をしているかを考えれば,容易に理解されるであろう.また,われわれの精神生活の大きな部分は,見たり聞いたりすることにより占められていることも,多くの人の認めるところである.
この知覚の問題は,心理学においてどのように研究されて来たのであろうか.ここで,心理の歴史の大略をごく簡単に述べておこう.独立した科学としての心理学の誕生は,いまから約100年前の1879年におけるライプチヒ大学の実験心理学研究所の創立の時とされている.W. ヴント(Wundt)が教授としてその実験心理学研究所を主宰した.しかし,それまでに,心理学の研究と教育がなされていなかったわけではない.哲学や自然科学の一部としてそれがなされていたのである.
この心理学の誕生の歴史的背景となったものは,17・18世紀のイギリス経験論の哲学者が論じた連合心理学と,19世紀の自然科学者たちによりなされた感覚研究と,ヴントより少し前に,G.T. フェヒナー(Fechner)により提唱された新しい学問である精神物理学の3つとされている.このうち,精神物理学は,すでに心理学の一部と考えることもできる.感覚研究はもちろん,この3つのいずれにおいても知覚の問題は重視されていた.連合心理学は,白紙の状態で生れた人の心に,感覚を通して得られた知識が,連合の原理に従って蓄積されていくと考えた.したがって,新しい知識の源である感覚経験は当然きわめて重要なものとされた.ヴントらの構成心理学は,意識を心理学の対象としたが,われわれの意識において知覚は大きな部分を占めているから,知覚の問題は心理学の大きな問題となった.なお,ヴントは後述するように,要素論の立場をとり,感覚を心的要素とし,知覚をそれらの要素から構成された心的複合体と考えた.
このヴントらの構成心理学は,20世紀に至り,3つの新しい立場により批判され,とって代わられた.それらの新しい立場とは,ゲシュタルト心理学,行動主義,精神分析学の3つである.このうち知覚の問題を重視するのはゲシュタルト心理学である.ゲシュタルト心理学は,構成心理学の要素論を激しく批判し,知覚は複数の感覚には分解できないまとまった全体過程であり,通常感覚と呼ばれているものは,知覚の要素ではなく,単純化された条件下における知覚であると主張した.一方,行動主義は,意識は主観的な経験であり科学にはなり得ないと主張した.したがって,意識的体験の一部である知覚経験は心理学の対象となり得ないことになる.ただし感覚による弁別行動は行動主義でも研究対象とされた.今日では,この行動主義の立場は,心理学の研究法に大きな影響を与えている.知覚を研究する際も,研究者自身の主観的経験としての知覚ではなく,研究の対象となる被験者の弁別行動から推定される被験者の知覚を問題とする.精神分析の知覚研究に対する直接的な影響は比較的少ないが,その後におこった知覚者側の要求などが知覚に及ぼす効果の研究などは,精神分析学なくしては考えられない.
今日の心理学は,これらの今世紀初頭における心理学の3大潮流すべての影響をうけたものである.行動主義の流れをくむ新行動主義が長らく有力であったが,最近に至り台頭してきた認知心理学が現在活発な活動を続けている.
本稿では,これらの立場における知覚研究を,年代を追って一つ一つ解説するということはしない.かわりに,これらの立場の変遷のうちに,形を変えながらも,繰り返し論じられて来た3つの論争点をとりあげ,問題の所在とそれぞれの立場の主張を明らかにしたい.それらの論争点とは,知覚は外界のコピーか否かの問題,知覚は過去経験によって支えられたものか,生来人間に備わったものかの問題,知覚は感覚要素に分解されるものか,分解不可能な全体過程かの問題の3つである.
なお,知覚を,知覚する人の側の積極的な活動として見る認知心理学の立場と,その歴史的背景については,次回に述べることとする.
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