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源さんはあるゴルフ練習場のレッスンプロである。この仕事を始めてもう,かれこれ30年になる。彼の練習場は大きな赤松の林に囲まれた丘の中腹にあり,赤い屋根のクラブハウスの前には小さな湖の一端が入江のように入り込んでいる。このあたり一帯は昔からの禁猟区で,郭公や百舌鳥の声を聞きながらゴルフの練習を楽しめる。練習場の距離は300ヤードあり,源さんは良く手入れするので芝も良い。私は週末にここで練習する常連の一人である。源さんとは初対面から妙に気が合い,気軽に話合える間柄である。彼は遠慮がない。「先生,昨日大学の若い先生がゴルフを教えてくれと言われるから2時間程やりましたがね,なにしろ理屈が多くて困りました。グリップがどうの,スタンスがこうの,腰の回転がああだのと本を読んで来て,理屈ばかり言つて,私の言うことを聞かんのですわ,球をうたせりやあ,ゴルフにならんのですがねえ。」「畳スキーと言う奴だね」「それああ,何のこつてす」「ろくにスキーも出来ん奴が本だけ読んで畳の上でスキーをはいて滑るまねをして,悦んでいる嬉しがり屋のことだ。世の中にはゴルファに限らず,どの社会でもスタイリストが多いな,研究のまね事をする研究者,調子の良い事を言う評論家,それにだまされる奴があるからね,ゴルフの球はだまされず打たれた通りに飛ぶからな。」「先生はうまいことを言うね,私も大学の若い先生だと言うから我慢して教えたのですが,しまいに腹がたちましてね。あんたは大学の先生か博士か知らんが,ゴルフは私の方が年期が入つているのだから,私の言う通りに打つてみたら,と言つたんですが,言うことを聞かんのですわ。本や雑誌を読んでも書いてあることを本当に理解しないで,解つとらんのですね,書いてあることを読み違えて,とんでもないことを思い違いしているんですわ。そしてボールを打つから真すぐにとばんのです。そういう人間ほど,頑固ですね。アメリカのプロはこう書いとるとか,日本のプロはこう言うとるとか,まあ理屈が多いんですね。球を打たせて見ればあほみたいなことをしていてね。」「ゴルフも他人の言うとることのうけ売りをして理屈を言つとるうちは半人前だ,プロは練習できたえて自分の身体におぼえさせた技で勝負しているんだからな。それが解る位なら,源さんの前でへりくつは言わんよ。年期の入つたプロと素人の自分との区別がつかん人が多いな。もつとも何年やつてもその道のプロになれん人もおるがね。人間,誰でもその道のプロになりたい,しかし苦しい修行と努力をせずに,手取り早く,一人前になろうとする。それを要領と思い違いしている。めぐまれた素質を持ち,たくましい根性でプロになつてやろうと言う執念を貫いて苦労して始めて,一人前になるのに,ちよいとかじつただけで解つたような錯覚をおこすのだ。だから少し思うようにならんと,止めてしもうか,自分と妥協して,ごまかすようになる。」「先生まあ,ゴルフにはその程度の人は多いね。私は若いときからゴルフしか知つとらん男だから,他の社会のことは解らんが,医者の世界にもあるだろうね。」
源さんのレッスンは厳しいので定評がある。彼自身が納得するまで,ウンと言わない。良いあたりがしても,「まあ,まあだね」と言つて仲々ほめない。フォームを直すのに情容赦はしない。お前さんは—から振りシングルだ—とか,その恰好は—明治の大砲だ—,などと口の悪い事も天下一品である。
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