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或る夏,北イタリアを旅行した時,フィレンツェの本屋で10号サイズの人体解剖図譜のコピーを見つけ早速数葉を買い求めた.レオナルド=ダ=ヴィンチに依る素描である.それは茶褐色の紙に茶のインクで描いた手稿のコピーであった.比較的,印刷の出来はよかった.ルネッサンス初期から最盛期を代表する芸術家としてミケランジェロやラファエルらと彼を知らない者は今ではいないが,レオナルドは絵画は許より力学,数学,治水工事,軍事技術など14-5世紀の人々が当時想像だに出来ないような研究も残し,驚くべき天才だったことに間違いない.その点,同時代の芸術家の追随を許さない.並外れた天才である.
帰国してその時,買い求めた手稿を見て驚いた.字が全く逆になって印刷されていたのである.しかし,頭蓋骨,(脳室は今,みるとおかしい)筋骨格系の解剖図は何等違和感がない.その写生は立体的で優れた出来栄えである.cranial vaultを取り去った頭蓋底の斜め傭鰍図などは向かって左に顔面,冶に後頭部を描き従来,誰もが描く一般的な方向であった.一方,人体内臓図では解剖学的には正しい左右内臓主要器官が描かれこれは左右逆ではなかった.手稿文字のみが逆であった.美術を知らない為か或はイタリア語を理解出来ないためか,初めは印刷の間違いか文字の入れ損い或は図と文字の合成のミスなどと考えていたが,とんでもない思い違いをしていた.理由はレオナルドの鏡面文字の故であった.なぜレオナルドが鏡面文字を書いたかは現在でも定説はない(高津著,新潮選書),文字の順当書きには利き腕の左,右が関係するらしい.従って或る研究者は彼が左利きであったため鏡面文字が書かれたと言う.どうもこの説に賛成する人が多いようである.しかし,どの絵を見ても左利きが優位となるようなものは無い.『岩窟の聖母』でも『受胎告知』でも人物の左手が右手を越えて優位に描かれてはいない.最近,友人の元外交官であるY君からイタリア在住時代に買い求めたDe Agostini社の画集を見せてもらった.この画集には沢山のスケッチが収められ,その代表的な絵画が完成するまでに描かれた素描が載せられていた.ウフィッイ美術館所蔵のもの,或は同一のモチーフでのロンドン・ナショナルギャラリーの試作とルーヴルの油彩のもの迄比較できた.それこそ丹念に整理された膨大な画集である.その中に,彼が右か左を意識するような変化があったかどうかを素描で調べたが,こと手に関しては極端に神経質と思われるスケッチの中で左優位性はなかった.従って左利きだからと言って鏡面文字が書きやすかったり左手を強調するものではないと思われた.本文中(勿論,イタリア語で書かれたY君の訳で理解できた)左利きに関しての記載より絵画的な手法に関しての論述で占められ当然のことだが鏡面文字については触れていない.
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