連載 臨床神経学プロムナード—60余年を顧みて【新連載】
緒言
平山 惠造
1,2
1千葉大学(神経学講座)
2日本神経治療学会
pp.94-96
発行日 2021年1月1日
Published Date 2021/1/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1416201715
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顧みると,筆者が医学部(旧制)卒業後,当時の制度で1年間のインターンを終えて,冲中内科(東京大学第三内科)に入局したのは1955年であった。病棟での内科学全般について2年間の実地教育(いわゆる病棟勤務)を受けた後,冲中重雄教授から学位研究の課題として「筋萎縮性側索硬化症」が与えられた(1957年)。病棟担当と並行して研究室での研究に取り組むとともに,さらに週1回の「神経外来」に加わり,神経疾患に広く接するようになった。「若年性一側上肢筋萎縮症(のちの平山病)」を診る機会を得たのはこの神経外来であった。
しかし,この頃,日本には「神経学会」はなかった。「神経」に関する学会発表はもっぱら「日本精神神経学会」であった。それには歴史的背景があった。過去において,実は「日本神経学会」が呉秀三(精神科),三浦謹之助(内科)によって設立されたことがあった(1902年)。しかし,その後「精神病」も神経器官の機能障害であるから「精神病」と「神経病」の境はないとして,精神医学の会員が増加し,「日本神経学会」の主流を占めるようになり,1935年に学会の名称が「日本精神神経学会」へと変更されるに至った。この影響は大きく,学会内における「神経学」の存在が徐々に稀薄になり,神経学(臨床,研究)に携わる「内科系」の人々から「神経学」を主体とする学会の設立を要望する気運が高まっていった。上に述べたように筆者が冲中教授から「神経学」の研究を指示されたのがこの頃であった(1957年)。
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