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ペンフィールド(Wilder Graves Penfield;1891-1976)は外科医の祖父,父のもとに,米国のスポケーンで生まれ,ウィスコンシン州ハドソンで育った。もともとペンフィールド家は英国南西部の端,コーンウォール州の出身であるが,彼の地の人々はケルト系で総じて強情な気質であるという。13歳のときに英国へ渡れるローズ奨学金のことを母が知り,「この奨学金はワイルド,あなたのためにできたようなものよ」と語り,それ以降,ペンフィールドはひたすらローズ奨学金をめざして勉強しプリンストン大学へ進学した。その後,ハーバード大学で人体解剖学の講義を2カ月間受けたのち,ようやくローズ奨学金を得てオックスフォード大学へ留学した。ここで彼はオスラー(William Osler;1849-1919),シェリントン(Charles Scott Sherrington;1857-1952)の知遇を得て彼らの講義を受け,1916年の秋にジョンズ・ホプキンス大学医学部の3年次に編入した。1918年から1919年にかけて,ボストンのピーター・ベント・ブリガム病院で外科のインターンとなったが,同科の主任はクッシング(Harvey Williams Cushing;1869-1939)だった。1920年には再び英国にわたりオックスフォード大学,英国立神経学・神経外科学病院(クイーン・スクエア)に籍を置いた。ここでホームズ(Gordon Morgan Holmes;1876-1975),ウィルソン(Samuel Alexander Kinnier Wilson;1878-1939),グリーンフィールド(Joseph Godwin Greenfield;1884-1958)らに教えを請い,脳神経外科の道に進むことを決意した。1920年にクイーン・スクエアで脳神経外科の手術を見学したとき,既にこの分野のリーダーシップは米国に移っていることを感じたという。
1921年にニューヨークのプレスビテリアン病院(コロンビア大学の教育病院)に勤務した。この頃ジョンズ・ホプキンス大学のダンディ(Walter Edward Dandy;1886-1946)によって脳室造影法が開発されていたので,ボルチモアに見学に行き,自分の臨床に取り入れた。この年に初めて2例の大きな脳外科手術を行ったが,2例とも死亡したという。1924年に半年間,スペインのカハール研究所へ行き,特にオルテガ(Pio del Rio-Hortega;1882-1945)に染色法を習った。ここでの研究は『Brain』誌に彼の単独名で発表された1)。1927年にはモントリオールに移ることに同意し,半年間ドイツのブレスラウにいるフェルスター(Otfrid Foerster;1873-1941)を訪れ,共同研究をした。ここでてんかんの手術について学んだ。1928年から王立ヴィクトリア病院,マギル大学に移ったが,ここでロックフェラー財団の出資により,モントリオール神経研究所を立ち上げ,神経病理学,神経内科学と脳神経外科学とが対等に協力するという長年の夢をかなえた2)。
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