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Case
「ひさしぶりに寝てしまったんですよ」ソファに腰かけながら奥さんは笑った.入院の時に見かけたときより,表情がずいぶんと和らいでいる.聞けば,もう幾晩も夫の看病で寝ていなかったという.「ほんとは,お父さん,うちで過ごしたいと思っているんですよ.だけど,夜でも腰や背中に激しい痛みが3時間ぐらい続くから寝られない.苦しくなると不安になるみたいで,電気を消すとこわがるから,夜も灯りはずっとつけっぱなし.暗くしないでくれって……」
61歳になる夫は腕のいい漁師.その夫が体調を崩し,ここに来る5年前に地元の病院で尿管腫瘍の診断を受け,紹介された総合病院で片側の腎臓の摘出手術を受けた.ふたたび漁に戻れたものの1年前に再発した.手術を受けた病院で定期的に検査を受けていたが,再発が見つからず,発見されたとき,医師からいきなり「手遅れだ」と言われたという.「夫は事実をきちんと知りたいと先生に言ったんです.患者として当たり前ですよね.だからって,『手遅れだ』ってそんな言い方はないでしょう? 夫は言いましたよ,『先生,そんな言い方はねえっぺよ』って.悔しかったし,つらかったですよね.病院に対する不信感もあって,『あそこはもう嫌だな』って.入りたくないと言うので,昨日,こちらに来たんです」
仙骨への転移が見つかったが,数か月前までは少しずつ漁をつづけながら家で療養し,東京のがん治療専門のクリニックへ通院していた.しかし1か月ほど前から痛みが激しくなり,ほとんど歩けなくなり,ここ数日は食事ものどを通らなくなってしまったという.
「すごく痛がるんですが,お風呂だけはいいようで,浮力がつくから和らぐのかしら.いっしょに入ってあの人の頭を洗うと,やれ,耳の中に水が入ったとか,洗い方が悪いとか,うるさいことを言うんですよ.だから,『ごめんなさいね』って言ったら,お父さん,急に泣き出して…….俺は何もできないのにお前にうるさいこと言うなんて,情けない,悪かった,俺のわがままだって泣くんです.いいよ,いいよ,わがまま言っていいよって言うんですけど,私もいっしょに泣けちゃって……」
ごめんなさいねと言いながら,奥さんの手の甲に涙がぽろぽろ落ちていく.
「病人はやっぱり苦しくなるとわがままになりますよね.痛いとかって,自分の気持ちをこちらにぶつけてくるけど,私が声を出してわあわあ泣いたりはできないですよ.家には年寄りがふたりもいますから.夫の両親ですが,おじいちゃん,おばあちゃんがいるところで,私が泣いちゃうわけにはいかないですよ」
そこまで言い終えて,奥さんはふうっと小さく深呼吸した.こうやっていつも気持ちの切りかえをしてこられたのだろう.「夫がなってみて初めてがんのケアはむずかしいなって思ったんです.うちでやれるところまでやろうと思ったんですが,苦しいのだけはどうしてもあげられない.ここに来て,昨日から食事がとれるようになったんですよ.痛みを和らげる薬をもらって.夜も睡眠剤を少しもらったら3~4時間ぐっすり眠れたみたいで.『これなら苦しんでいることねえや.ちょくちょく睡眠剤もらって寝る方がいいや』って.うちにいたいとずっとこだわっていたんですが,本人も納得してね,昨日の晩,ほんとに眠れたんです」それがなによりよかったと話されたあと,「ちょっと,お父さんの様子を見てきますね」と奥さんは足早に病室へ向かった.
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