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フィンランド点描(その1):ヘルシンキ大学医学部皮膚科—フィン・チャンバーとサクショク・ブリスター法の開発」
1978年の2〜3月へと2か月間フィンランドを訪問する機会があった.これは,1970年から5年半に及ぶボストンでの滞米生活を終え,日本に帰国してからちょうど2年半が経った時に突然大学側からフィンランドへの長期出張を命じられたことによる.その理由は,当時の北海道知事がフィンランドのヘルシンキを訪問した際に北海道とフィンランドとの2国間で国際医学交流提携を行う事の話が実り,知事の命を受け,札幌医科大学がその具体的な展開を図ろうとしていたが,札幌医科大学の学長が幾度となく手紙,または電報を出してもフィンランド側からこの交流の開始に関し,全く返事がなかったため,その実態の調査をする事が命令であった.ヘルシンキ大学を訪問し,なぜフィンランド側から音信が途絶えていたのか理由がすぐに判明した.その理由は,ちょうどその時期は,ヘルシンキ大学の医学部長の交代の時期であり,新しい医学部長自身も経過についてよく把握する事ができず,すぐに返事を出せなかったためと,さらに予算が認められていなかったため返事を出したくてもまったく出せなかったことによるものであった.そこで私に課せられた任務はまず,この国際医学交流のスポンサーをフィンランド内で探す事であった.ヘルシンキ大学から可能性のあるいくつかの財団を紹介してもらい,個々の財団の理事長に直接会い,日本とフィンランドの国際医学交流の支援を要請した.その中でPaulo財団の理事長がこの国際交流に興味を示し,財政的支援を約束してくれた.その後,現在まで約25年間一度も途絶えることなくこのPaulo財団からの経済的支援が継続し,この国際医学交流は成功に行われている.当時の理事長はすぐに亡くなったが,その息子さんが現理事長となり,色々と国際交流に深い理解を示してくれ,フィンランドのすべての5つの大学の医学部を含めた国際医学交流活動が行われている.余談として後に私は1987年からカナダへ移住したが,その挨拶を前理事長にしたところ「自分はカナダのアルバータ大学を訪問した事がない.また,どのような大学であるか全く知らないが,お前が永住すると選んだアルバータ大学はきっと良い大学であろうからその大学に対し,フィンランドのヘルシンキ大学医学部と国際医学交流を行う事が出来るよう財政的支援を行ってもよい.これは,私が今までの同財団に対して行ってきた事へのプレゼントだ」との事であった.この財政支援は,現実的に実を結び現在もずっと両国間(ヘルシンキ大学とアルバータ大学とで)で継続している.
フィンランドは,北緯60度と70度の間に位置し非常に寒い北国であり,面積も長径1,160km,短径540kmと非常に小さくちょうど北海道とほぼ同じくらいの大きさである.2〜3月にかけて滞在したが,到着して最初の2週間は1度も太陽の顔を見ることがなく,絶えずどんよりした空で寒く,雪がしばしば降る気候であり,外気の温度も−20℃以下となっていた.私はなぜフィンランド人にアル中の患者が多いのか.また,冬期間の自殺者が多いかについてフィンランドの訪問前に疑問を持っていたが,到着後すぐにその理由がわかった.すべてこの冬期間の雪の降るどんよりした寒い天候の中で,しかも日中の時間が短い(目中の明るい時間は朝8時頃から夕方の4時頃迄)ためにより,うつ状態へと進行するためであると思った.しかし,戸外の寒さにかかわらず個々の住宅の室内は極めて暖かく窓ガラスは古い建物でも2重であり,新しい建物では当時,既に4重であった.また,ドアも2重ドアの所が多く,一度得た暖かさは決して逃がさないという工夫が随所に感じられた.したがって,一般に多くの人々は室内では薄着で冬を過ごしていた.
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