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留学してまもなくラボの近くでテロが起こった.米国の象徴であった世界貿易センターがあっけなく倒壊し,一瞬にして数千人が命を失った.異常な混乱の中,ラボのボスからDNAチップを渡された.DNAチップは手のひらに乗るほどの小さな板で一種のマイクロアレイであるが,一度に数万種の遺伝子発現を解析できる革新的技術である.DNAチップを使ってケラチノサイトの転写プロファイリングをしなさいというのである.これなら一気にデータが出ると思った.しかし,20枚のチップには延べ数十万の遺伝子が載っており,特に時系列情報の解析は困難を極めた.炭疽菌騒動が米国を揺るがしていた最中,半年ほど費やして何とか有意な遺伝子を数百種に絞り込んだ.次にプロファイリングしようとしたが,当時はまだ充実したアノテーションがなく,自分で皮膚用のデータベースを作成した.結局,一つひとつの遺伝子について既知の機能を確認しながら全体の生物現象を推測していくという地道な作業となり,それはジグソーパズルを解いているようなものである.しかも解は1つではなさそうで,霧の奥に遺伝子の群集を並べて絵を描いている感すらあった.夜になり眼が疲れてくると,チップの残像とマンハッタンの摩天楼が重なり,果たしてこれはサイエンスだろうかと何度も思った.サイエンスなのかアートなのか,皮膚科学を含めた形態学ではよく議論されるテーマであるが,最新鋭のマイクロアレイも部分を見るか全体を見るかで,それぞれの割合が変わってくるのかもしれない.マイクロアレイはポストゲノム時代の旗手として期待され,最近は臨床応用も現実味を帯びてきた.しかし,数万のシグナルから何を,どのように抽出するかは大きな問題である.最近はどの領域でも膨大な数の遺伝子情報を扱うことが多くなり,バイオインフォマティクスという新しい分野も急速に発達してきた.無数に断片化してしまった同時多発テロ犠牲者の遺体は,現在も遺伝子解析による同定が行われているが,まだ終了の目処が立っていないらしい.この作業にもバイオインフォマティクスが貢献しているという記事を読んで複雑な心境になった.
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