鏡下囁語
齋藤茂吉のドイツ・オーストリア留学―海外留学は昔も今日も気がつかない自分の潜在能力が発揮される新たな機会となる
加我 君孝
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1独立行政法人国立病院機構東京医療センター・感覚器センター
pp.789-792
発行日 2010年10月20日
Published Date 2010/10/20
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1411101697
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はじめに
近年,米国への留学生は日本人は減少し中国人が増えている。日本への中国人留学生も減少している。これは医学の領域でも同様である。その背景には,国立大学が法人化した後は,かつてのように助手のまま有給留学をさせるとその間もう1人助手を採用できる制度がなくなったこと,さらに新臨床研修制度の平成16(2004)年度の導入によって入局者が減少し,留学生を派遣するほどのマンパワーに欠けるようになった影響が大きい。しかし,それでもさまざまなルートを使って海外留学の機会を作ることは人材育成に欠かすことができない。留学生の海外体験報告は多いが,齋藤茂吉のドイツ・オーストリア留学中に詠んだ短歌ほど,留学生の心理を的確に描写したものはないので紹介したい。
齋藤茂吉は1882(明治15)年,現在の山形県上山市に生まれ,養子縁組で東京で精神病院の“青山脳病院”を経営する齋藤紀一の家に行くことになり14歳のときに上京した。開成中学,第一高等学校を経て,東京大学医学部に入学した。医学部に入学してから歌人として活躍した。学生のときに母親の死を詠んだ歌集“赤光”で注目を集めた。特に“みちのくの母のいのちを一目みん 一目みんとぞいそぐなりけり”と“のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて 足乳根の母は死にたまふなり”の2つは現在も不滅の代表作として国語の教科書にも掲載されている。
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