文庫の窓から
眼科諸流派の秘伝書(30)
中泉 行信
1
,
中泉 行史
1
,
斉藤 仁男
1
1研医会
pp.684-687
発行日 1984年6月15日
Published Date 1984/6/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1410209201
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39.大阪三井元孺眼目外障内障方凾
幕末四大眼科と称して馬嶋,竹内,田原および土生の各眼科流派が挙げられていることはよく知られているが,同じ頃眼科で一家をなした家系に三井家があった。
三井家の始祖は藤原氏の出で,その何代か後の子孫が讃岐象頭山大麻山附近に住みつき,さらに代を経て三井久助重長に至り,その子に新兵衛重行(元和6年〜元禄11年)があって,この人が三井家眼科初代であるといわれる。その眼科の興りは新兵衛が讃岐国小松庄五条(香川県仲多度郡琴平町)に住んでいた頃(延宝年間),尾州清岸芋(明眼院?)の住僧雪溪和尚(延宝年間蔵南坊の住職は第14代円清法印に当る)が金比羅人権現の金光院に滞在の折,新兵衛重行が雪溪和尚から眼病治療術を伝授されたことに始まると伝えられる。その後,三井家は三井道安,梅山の家系,三井善庵の家系および三井立悦の家系の三家に分れ,それそれ医業を営み.ことに多くは眼科医として有為な人材を輩出させた。三井流眼科の興りは讃岐の琴平であったがこ井善庵(重之)の大阪進出以後大阪三井流眼科としてその後系に良之(眉山),善之(棗洲)らが相次いで現れ,大阪三井流眼科の名を高めた.ここに掲出の「大阪三井元孺眼目外障内障方凾」(浜松,内田貞氏校訂)はこの大阪三井流眼科の一部を伝えたものと思われるが,ここには本書と大阪三井流眼科の善庵,眉山,棗洲等に限って述べることにする。
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