〔Ⅸ〕温故知新
菅沼先生の思ひ出
桑原 安治
pp.63
発行日 1947年4月20日
Published Date 1947/4/20
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1410200185
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菅沼先生が逝去されて早くも滿1年を迎へようとする。先生が慶應の眼科を創設せられてより百數十人の門下生が親しく眼科學の「いろは」より手鹽に掛けて御導を賜つた。先生の教室に於ける教育は懇切丁寧を極められてをつたが又實に嚴格であつた。教室は眼科學を學ぶ道場であるから神聖の場所である。從つてだらしない服裝,態度は許されなかつた。例へば夏は暑いので他の科の連中は皆シヤツの上に白衣を着て患者を診てゐるが先生は之れを禁じられ夏でもカラーを著けネクタイを結んで正しい服裝でないと患者を診察をする事を許されなかつた。皆汗がワイシヤツを通り白衣の上にも滲み出た。脂肪質の者などは瀧の如き汗の中で診療をやる始末である。先生御自身も額に玉を結ばれ乍ら學生や教室員に諒々と説明をされたり患者を診たりされた。學問に對しては特に嚴格であられた。論文は自分のメモではなく意見を他人に充分諒解させるものでなくてはならんと云はれ文章は非常に喧しく初めて論文を書いて御校閲を願つたもので恐らく眞赤に直されないものは無かつたであらう。又集談會や學會に演説するものは充分に練習をさせられた。演説も聽衆者に皆充分理解させる樣に致さねばならぬと云はれて練習の時は先生御自身指導になり講堂の前後左右に席を移され乍ら聽かれて何所には聲が屆かぬとか圖を指乍ら話をすると聲量が半減するから指したら又元の姿勢こなつて話を績ける樣にと種々細かい注意を與へられた。
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