文庫の窓から
『素問玄機原病式』
中泉 行弘
1
,
林 尋子
1
,
安部 郁子
1
1研医会
pp.110-113
発行日 2011年1月15日
Published Date 2011/1/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1410103526
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医の門戸は金元に分かる
『素問玄機原病式』の著者,劉完素は金の天会4~10年(1126~1132年)の頃生まれたとされている。字を守真,号は通玄處士といい,またの号を宗真子という。出身地が河北省の河間県であったことから,河間居士とも号したので,後に彼に連なる学派は河間派と名づけられる。幼い時に父を喪い,母もまた病に倒れ亡くなったという。こうした辛い体験を経て自らも医学を志したのだが,それ以前の医師たちが方剤に関する研究に熱心だったのに対し,劉完素は医学理論の研究に向かった。
当時,かの地は南北に分かれ,北宋から金・元と連なる流れと南宋から元へといく流れが並存していたが,医学発展の中心となったのは華北であったとみられている。そこには宋代の旧を打破して新しい学問を創り出したり,あるいは分化させていくような力が加わっていたと思われる。たとえば,同じ科挙といっても,金と南宋では異なる価値観で選抜が行われ,南北それぞれの社会が抱く空気というものには違いがあったようだ。『四庫提要』の医家類で「儒家の門戸は宋に分かれ,医の門戸は金元に分かる」と述べるとおり,この時代は多くの名医を輩出したが,金元の四大医家のうち3人は華北の出身であり,新しいものを生み出す力がこの地にあったことを示している。
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