思い出の写真
Warthald先生の墓
九嶋 勝司
1,2
1東北大学
2元秋田大学
pp.550-551
発行日 1986年7月10日
Published Date 1986/7/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1409207427
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1961年(昭和36年)のウイーンにおけるFIGO世界大会からの帰途,ベルンに立寄り,故Warthald教授のお墓の前に額く機会があった。そのときのスナップ写真がこれである。
私のはじめの恩師は明城先生であり,先生は東北帝大医学部の初代教授である。東北帝大教授となられる前に,ドイツ留学をされ,フランクフルト大学のWarthald教授に師事された。これは大正初期のことである。明城先生のご研究は"小児卵巣の研究"であり,この中に明城・ワルタルドの杯細胞巣の所見が記載されている。この杯細胞巣は偽ムチン嚢種の源基であるというコメントもつけられており,卵巣腫瘍史に残る研究だったと思われる。しかるに明城先生のお仕事がまだペーパーにならない大正3年(1914)に第一次世界大戦が勃発し,敵国人である先生は国外追放の身となり,心血を注いだ作成標本もまたその鏡検所見も総てドイツにおいたまま,中立国スイスを経由して帰国された。そのため小児卵巣の論文は学位論文になし得ず,帰国後,纏められた"卵巣神経鍍銀法"を東京帝大に提出され,学位を獲得されている。それが大正7年(1918)のことであり,明城先生が東北帝大教授としてご赴任なされてから2年後のことである。大正9年(1920)になって,第一次世界大戦は終息し,それと共にベルンに難を避けていたWarthald教授はフランクフルト大学に帰任きれ,早速に小児卵巣の標本を日本の明城先生に送り届けて下さった。
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