連載 整形外科と蘭學・4
吉雄耕牛と解体新書
川嶌 眞人
1
Mahito Kawashima
1
1川嶌整形外科病院
pp.804-805
発行日 2003年6月1日
Published Date 2003/6/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1408100737
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「解体新書」誕生の背景に,中津藩主奥平昌鹿の母親のけいの骨折をたまたま江戸に滞在していた長崎の大通詞で蘭方医であった吉雄耕牛(幸左衛門)(1724~1800)が治療したことがきっかけとなり,吉雄耕牛と前野良沢との間に師弟関係が生まれたことは既に述べた.
耕牛は平戸から長崎に来たオランダ通詞(通訳)吉雄家の五代目で,四代目吉雄藤三郎の長男であった.定次郎,幸左衛門,幸作,永章と称し,耕牛は号である.吉雄家は代々通詞を務めた家であるが耕牛の祖父は寿山といい,医業も営んでいた.寿山の妻は中津の出身であった.耕牛は寛延元年(1748)には25歳で大通詞(最上級訳官)となり,オランダ領事の江戸参府にも度々同行しており,通訳としても最高レベルの人材として活躍した.通訳のかたわら長崎出島の商館付医師,特にツュンベリーから教示を受け医学・医術を学んだ.パレ,ハイステル,プレンク,スメリなどの医書やウォイツ,ハルマ,ショメールなどの字典の収集に務めた.
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