連載 整形外科と蘭學・2
奥平昌鹿と母親の骨折
川嶌 眞人
1
Mahito Kawashima
1
1川嶌整形外科病院
pp.68-69
発行日 2003年1月1日
Published Date 2003/1/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1408100617
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筆者はたまたま中津市にある福澤諭吉の家のすぐ裏で生まれ,姉とともに諭吉の家を掃除しながら育ったので,諭吉がどうして慶應義塾を開設したり,欧米の文化を次々と紹介したりしたのか幼い頃から知りたかった.小学校に通うようになって初めて子供向けの『福翁自伝』を読み,諭吉が長崎や大阪の適塾でオランダ語を学んだことを知った.諭吉は適塾で蘭学をみっちりと学び,安政5(1858)年に江戸の中津藩中屋敷(現在の聖路加病院付近)に蘭学塾を開くときには,江戸の人たちに蘭学を教えられる自信に満ちていたと述べている.諭吉の脳裏にいつも焼きついていたのは,同じ中津藩の先輩で蘭学の鼻祖とも呼ばれる前野良沢のことである.明和8(1771)年,前野良沢たちが骨ヶ原で解剖を行い,翌日から『ターヘル・アナトミア』の翻訳を開始した場所も築地の中津藩中屋敷である.諭吉の蘭学塾はやがて慶應義塾へと発展し,オランダ語に見切りをつけて,英語を中心とした学問と文化の発展に貢献することになるのであるから,中津藩は蘭学の開始から発展,終焉に至るまでに大きな影響を与えたことになる.
諭吉は杉田玄白の著した『蘭学事始』を明治2(1859)年に再版し,大槻玄沢追悼50回忌の中でも,蘭学を創始した前野良沢,杉田玄白たち先人の労苦は涙無しには語れないと述べている.
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