表紙の心・20
—モンペリエ出身の国王付外科医—ラ・ペイロニーの坐像
大村 敏郎
1,2
1川崎市立井田病院外科
2慶応義塾大学医史学
pp.1099
発行日 1989年8月20日
Published Date 1989/8/20
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1407210428
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南仏の医学の都モンペリエからは歴史上様々な活動を残した医師や外科医が育った.古くはギー・ド・ショリアク(Guyde Chauliac,1298?〜1368)がいる.ペストの大流行の中アヴィニオンの街中にふみとどまって黒死病の病態を記載した資料を残し,モンペリエでは解剖と外科を教え,晩年には「大外科学」(Chirurgia magna,1363年)を書いた.この著作はラテン語だが,フランス語訳は「ギドン」(Guidon,1478年)として伝わり,アンブロアズ・パレ(Ambroise Paré,1510?〜1590)が外科を学ぶうえに大きな役割を果した.「ギドン」という書名にはギーという人名とガイド(案内)という言葉が掛け言葉として使われている.
16世紀で最も著名なのはフランソア・ラブレー(FrançoisRabelais,1494〜1553)であろう.文豪として1530年代に「パンタグリュエル物語」や「ガルガンチュア物語」を書いたことは知られているが,はじめパリで僧侶としての修業を積み,その後モンペリエの医学部を卒業している.パリより自由なルネサンスの気風の高いこの土地を求めてきたのであった.ラブレーについては次号で触れる.
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