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はじめに─外科医の錯覚と呪縛
手術は人体の補修工事であり,完成までの過程(発生)と構造(解剖)を熟知したうえで胎生を遡ることがその基本理念である.無論,解剖の真実は普遍だが,生体を扱うわれわれ外科医の興味は解剖学者のそれと若干異なるのもまた事実である.
手術という共同作業を行い,あるいはそれを他者とディスカッションすることが必要な外科医にとって,用語の共有は不可避である.ただし,それは血管や神経のように明瞭な輪郭をもつ構造物であれば問題はないが,結合組織のように境界や連続性のはっきりしないものになると,途端に曖昧になる.そこで外科医のこだわりが始まる.注意深い外科医は手術のたびに遭遇する気持ちのよい剝離層があることに気づき,剝離された後の景色を眺めながら,あたかも自分が2枚の「膜」の隙間を見事かき分けて進んできたような“錯覚”に陥る.そして,実は剝離によってそれまでよりも密になっただけの結合組織の面に○○fasciaという名前を付ける.fasciaが日本語で「筋膜」と訳されていること自体がその錯覚を容認している.ただし,ここで厄介なことがある.気持ちのよい剝離層に隣接して,別の剝離可能層が存在することがある.所詮は境界のはっきりしない結合組織の中を進んでいるのだから当然である.それを電気メスで切ると線状の切り跡が現れる.超音波凝固切開装置を使うと,シールされてよりはっきりした線になる.外科医は思う.「ここにはもう一枚筋膜がある!」.鑷子で摘み上げると確かにテント状に吊り上がり,あたかも膜が覆っているように見える.その状態でホルマリン固定しHE染色でもしようものなら,スジ状の構造物が浮かび上がる.間違いない!そして新しい名前を付ける.こうして○○筋膜がどんどん増えていく.後進の外科医たちはこんなに複雑なのかとうんざりしながらも,それを一つ一つ確認しながら(あるいは探しながら)手術することを強いられる.確認といってももともと曖昧なものだから,ときには無から有(アーチファクト)を作り出して納得しているかもしれない.そればかりか,それが生体内でひと続きの結合組織であるということもいつしか忘れてしまい,胃の手術をするときに出くわす○○筋膜と直腸の△△筋膜をローカルな名称として別々に覚える羽目になる.筋膜なんて,作ろうと思えばいくらでも作れるのに,だ.かくして“呪縛”に支配された,難解極まりない局所解剖学が成立する.
でも胎生期の発生過程を遡ってみれば,たとえば胃や大腸,膵といった臓器ごとの特殊性をもって捉えられがちな局所解剖でさえも,ある共通の構造と一定の規則性の上につくられたものであることに気づく.○○筋膜と呼ばれるものの多くは,その強い語感とは裏腹な,かつて胃や腸が単純な「腸間膜」で腹壁とつながっていた頃に腹膜と脂肪との間隙に介在していた細胞成分をもたない“疎性結合組織”が密になったものである.また,癒合筋膜fusion fasciaは腸間膜の褶曲現象が生んだ腹膜の融解産物とされている.癌の手術においてこれらを意識することが重要なのは,リンパ郭清が,標的臓器の腸間膜を基部で切り落とすことを原則とするからである.名前ではなく実体としての膜の重要性に気づけば,出血が減り,手術の精度は向上する.
拙著「イラストレイテッド外科手術」第3版1)は,こうしたコンセプトに基づき改訂されたが,2010年の上梓以降,発表の機会などを通じて多くの先生方から貴重なコメントやアドバイスをいただき,筆者の考え方はむしろよりシンプルになった.また,カラー化,アニメーション化の要望が多いことも実感した.折しも京都大学,坂井義治先生らの連載『ポイント画像で学ぶ腹腔鏡下低位前方切除術』の続編として,胃癌手術のリンパ郭清に役立つ臨床解剖をテーマとした企画をいただき,自分の中で刷新した内容をまとめ,再び世に問う絶好の場と思いお受けした.予定している約1年間の長期連載の中で,前半は「胃の腸間膜」をキーワードに,その誕生からわれわれ外科医が目にするまでの形態変化を特に膵との関係を意識しながら追う.そして後半では,胃の領域リンパ節のうちでも特に膵と関わりの深い6番と11番の郭清手技に関するロジックを展開したい.
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