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1867年,Billroth(図1)はウィーン大学教授会からの招聘を受けて,7年間を過ごしたチューリッヒを離れて,ウィーン大学第二外科教授に就任することになった.Berlin大学助手からZurich大学外科学の主任教授に迎えられた1860年から1867年までを過ごしたチューリッヒ時代に,仕事の面では名著と評される『Die allgemeine chirurgische Pathologie und Therapie in 50 Vorlesungen』の刊行,「Beobachtungsstudienuber Wundfieber und accidentelle Wundkrankheiten」の発表や外科臨床への体温表の導入(なお,経時的な体温測定から「体温曲線」を創始したのはライプチッヒ大学内科学のWunderlich:図2である)などがあったが,家庭的には子供達の病気や長男の死(図3)などがあり,暗澹たるものであった(こういうことからも,夫人はチューリッヒを不吉で忌まわしい地と感じていたという).そのような事情もありウィーン大学からの招聘を熟慮のうえ受諾し,“心機一転”ウィーンに転任することになった(後年音楽を通じて親交することになるBrahmsがウィーンにあったことも,ウィーン行きを決意することになる一因であったといわれている).ウィーンに赴任したとき,Billrothは38歳と若く,医学部教授のなかで最年少であった.
堺哲郎教授が以前に本誌上に連載された「Theodor Billrothの生涯」によれば,普襖(プロシヤ-オーストリア)戦争後でプロシアに対する憎悪が依然として強い時期であったにもかかわらず,17名からなるウィーン大学医学部の教授会(図4)はいわば敵国人に白羽の矢を立てて,ウィーン大学外科学をBillrothに託したのである(Billrothは,17票のうち病理学のRokitanskyや生理学のBruckeの票を含む11票を獲得して,第二外科の主任教授に選出されたという).
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