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1867年,すなわち独襖戦争が終結した翌年のオーストリア-ハンガリー二重帝国が発足した年に,Billroth(図1)は前任者のSchuh(Franz Schuh:1805~1865:図2)の後任として,ハプスブルグ家が創設したウィーン大学の第二外科教授に迎えられた.ウィーン大学の外科学の流れを図3に示したが,1842年にウィーン大学の外科は2講座制となり,このとき新しく開設された第二講座の主任教授となったのが,Schuh(教授在任:1842~1865年)である.Schuhは当初法律家を目指していたようだが,後に医学に転じ,Wattmann(Joseph von Wattmann:1789~1866:教授在任:1830~1847年)の外科学講座の助手となった.1836年にSalzburgに転出したが,数年してウィーン総合病院の医長として復帰している.そして1842年には外科学正教授となり,第二外科講座を主宰するようになった.
1865年に敗血症で死ぬまでの間に97編の研究論文を残しているが,内容としては,呼吸器疾患診療の大家であったSkoda教授(「ビルロート余滴・9」で述べた)の影響もあってか,心肺疾患の外科診療に関する先駆的研究(胸腔や心嚢腔穿刺,そして新しい換気弁の考案など)が多い.さらに,創傷後の感染や敗血症の研究や気胸の研究においても先鞭をつけ,オーストリアに最初にエーテル麻酔を導入したのもこのSchuhである.このようにSchuhは,「新ウィーン学派」とよばれたRokitanskyやSkodaらとともにウィーン大学医学部の改革に大いに貢献している.後にBillrothと対峙したDumreicherという変人教授(といわれている)が主任教授として君臨していた第一外科に比して,第二外科はSchuh自身の人柄の良さも手伝って,評判がよく大いに隆盛していた.しかし惜しいことに1865年12月22日,Schuhは手術中のちょっとした傷から致命的な敗血症にかかり急逝したのである.そして,このSchuhの後任としてウィーン大学医学部教授会は,Zurich大学から敵国ドイツ出身のBillrothを招聘したのである.
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